アズアドッグ

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 夕方、嫌な夢を見て目を覚ました。五時。胡蝶蘭での約束の時間までにはまだ間がある。宮 田からもらったままになっていた金の入った封筒をスーツの内ポケットに入れ、藤村は自分 の部屋を出た。
 堤防沿いの道を車で走る。日が沈む頃、古い住宅街に着いた。藤村は路上に車を停め、同 じ造りの家が立ち並ぶなか、その内のひとつを目指して歩き始めた。目当ての家。蛍光灯の 明かりが窓から漏れていた。藤村は、ドアを叩き声を掛けた。しばらくして、ドアが開かれた。 高校生の男の子が藤村の顔を見て、身体をずらし、中に招き入れた。
 橘友成は敷きっぱなしの布団の上にあぐらをかいて座っていた。六畳間にテレビ の音がけたたましく響いている。橘は藤村を見上げ、そこへ座れと顎で示した。
「お加減いかがですか」
「相変わらずだ。痛めたところが動きゃしない」
 再びテレビに視線を戻し、橘が答えた。藤村は懐から封筒を出し、布団の脇に置いた。橘 は横目で封筒を見た。厚みで中身を量っている。
「景気がいいんだな。うらやましい話だ。こっちは仕事にあぶれちまってるのにな。もっと もこんな身体じゃ仕事があってもできやしないがな」
 伸ばしっぱなしの髭のなかで、口が不満げに曲げられた。彼は身体をひねって封筒を手に 取り、そのまま布団の下に押し込んだ。その身体からすえた臭いが漂った。風呂にも入って いないのだろう。
 藤村は目礼し、立ち上がった。橘は藤村の方を見ようともしなかった。
 外に出ると少年がズボンのポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「また、金を持ってきたんですか」
 彼は藤村に突っかかるような口調で言った。藤村はそれには答えず、煙草を出し口にくわ えた。少年は藤村が煙草に火を点けるのをじっと見つめていた。
「あんたが持ってくる金を、じいさんがどう使っているのか知ってるんですか」
 藤村が吐き出した紫煙は、冷たい風にあっというまに消されていった。少年は声を尖らせ た。
「俺の進学資金がいるって、あんたにせびってるのは知ってるんだ。だが、じいさんはあん たがくれた金を、一銭だって残しちゃいないぜ。全部ノミ屋に持ってかれちまってるのさ」
 彼は言葉を切って、藤村の顔色を窺った。だが、そこには何の変化もなかった。
「そう、あんたもそんなことは分かってるんだよな。……まったくとんでもない偽善者だぜ。 あんたがやってることは、全部自己満足のためにしか過ぎないじゃないか」
 言葉の最後は叫びになりかけていた。藤村は煙を吐いてから言った。
「私は橘さんに金の使い道を云々する立場じゃない。私は必要な償いをしているだけだ。君 が言うように自己満足に過ぎないかもしれないがね」
 少年は藤村より頭ひとつ小さかったが、顎を上げ藤村を見下すようにして言った。
「そうさ、あんたは汚い。うちのじいさんもだ。俺は知ってるんだ」少年は息を大きく 吸った。「事故を起こしたとき、あんたは酒を飲んでたんだろ。だけど、それを隠したんだ。警 官だったからな、あんた。そんなことを隠すぐらい何でもないんだよな。汚ねえよ。飲酒運 転した上にひとをはねておいて、逮捕されないどころか免許の取り消しにさえなってないん だ。じいさんもじいさんだ。最初はあんたが飲酒運転だったとさんざんごねておきながら、 示談でいい条件が出されたとたんに口をつぐんじまった。もっとも、端から金が目的だった んだから無理もないけどな。あんたを交通刑務所に送っても金になるわけじゃない」
 少年は口を曲げて笑った。
「いいことを教えてやろうか。じいさん、車に当たって示談金をせしめたのは初めてじゃな いんだぜ。当たり屋さ。じいさんは」
 藤村は煙草を捨て、靴底で踏み消した。目を上げて少年の顔を見る。口元はいびつな笑い を浮かべているが、目には痛々しい色が滲んでいた。――小学生のときに親が離婚、母と共 にその実家へ移り住む。中学生になった途端、母が再婚。彼を残して実家を出る。今は祖父、 友成とふたり暮らし。その祖父はまだ働ける若さだが定職に就いていない。今までに二度交 通事故に遭って、二度とも示談金を得ている。――それが、事故の後に保険屋が調べてき た橘友成の周辺情報だった。
「なんだっていつまでも金を持って来るんだよ。示談金はとうに払い終えちまったんだろ。分 からねえよ、あんたのやってることは」
 少年の口調は弱々しくなっていた。藤村は痩せて頬骨の浮き出ている少年の顔を見た。
「私が持っていても役に立たない金だからだ。ここに持ってくればたとえわずかでも何かの 役に立つ可能性がある。それだけのことだ」
 藤村はそう言い置くと、車に向かって歩き出した。少年は黙って彼を見送った。
 藤村の車が動き出したときも、少年は同じ姿勢のままその場に立ちつくしていた。 

 
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