アズアドッグ

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 藤村はバックミラーに映る胡蝶蘭のドアを見つめていた。既に店を出てから十分が過ぎている。 冷え切っていた車内も暖まり始めていた。
 ドアが開き、みゆきが出てきた。黒い毛皮のコートを羽織っている。彼女はまっすぐに藤村の 車に歩み寄った。助手席のドアが開き、冷気とともに彼女が滑り込んできた。むせる ような甘い香りが車内を満たした。
「待っててくれないかと思ったわ」
「何故?」
「簡単に女の言うことをきかないひとだと思った」
 藤村はヘッドライトを点けた。
「どこに行けばいい?」
 みゆきは私鉄の駅名を口にした。
「駅前にマンションがあるわ。そこに住んでるのよ」
 藤村はそのマンションを知っていた。いわゆる、億ションと呼ばれる高級マンションだった。
 セダンをみゆきの家へと向けた。アクセルを踏みながら、何故、胡蝶蘭のような店のホステスをし ている女が億ションに住めるのかを、藤村は考えた。思いつく限りではあまり愉快な答えは 出てこなかった。
 マンションに着き、セダンを地下駐車場に停めた。エレベー ターに乗り込むと、みゆきは最上階のボタンを押した。
 招き入れられたリビングは藤村の住む部屋の、ゆうにふたつ分はあった。エアコンがフル回転を始 め、すぐに部屋は暖まった。
「お酒、サイドボードの中から出してね。ちょっと着替えてくるわ」
 彼女は廊下の左右に並ぶドアのひとつへと消えていった。
 サイドボードの曲面ガラスの中にはあ りとあらゆる銘柄の酒が並んでいた。藤村はターキーを取り出し、手近にあったグラスにそれを満 たした。馴染みきった味と香りが、喉から身体の芯へと伝わり落ちていった。もう一度酒を注ぎ、 グラスを持ったまま壁際に配されたソファーに腰を下ろした。ガラストップのテーブルには女性 ファッション誌と吸い殻の溜まった灰皿が置いてあった。藤村がその吸い殻を見つめていると、リ ビングのドアが開いた。
「お待たせ」
 裾を出したシャツの下から伸びる脚は、黒いスパッツに包まれていた。身体の線がそのまま浮き 出ている。よほどそのラインに自信があるのだろう。
「ごめんなさいね、おつまみも出さないで」
 彼女はリビングの奥に設けられたキッチンから、氷と自分のグラスを持ってきた。藤村の隣に 腰を下ろし、封を切られたボトルに目をやった。
「バーボンね。あなたらしいお酒だわ」
 彼女は自分のグラスに氷を入れ、酒を注いだ。人差し指で氷を二三度回してから、グラスに口をつけ た。その液体が通り過ぎていくとき、微かに彼女の喉が鳴った。
「あなた、宮田とはどういう関係なの」
 小さく息を吐いてから、彼女は藤村を見た。藤村は彼女の視線から顔をそらし、正面の壁に掛けられ たシャガールのリトグラフに目をやった。
「彼に雇われている」
「ええ、それは知っているわ。でも、それだけの関係じゃないんでしょ」
 藤村は絵から目を離し、彼女を見た。胡蝶蘭の暗い照明の下では気付かなかった顔のディティールが、間接 照明の柔らかな光に浮かんでいた。滑らかな肌、耳朶の産毛、少し上向き加減の鼻。話しぶりや身のこなしか ら、二十代後半と思っていたが、案外もっと若いのかもしれない。
「何故そう思うんだ」
 彼女は小首を傾げて喉の奥で笑った。
「だって、雇い主に対する口の効き方じゃないでしょ」彼女は目を少し細めた。「彼の弱みでも 握ってるの?」
「自分の弱みを握っている人間を放っておくような奴じゃないさ、宮田は」
「それもそうね」
 藤村は煙草を取り出し、くわえた。彼女は火を点けようとする素振りも見せなかった。店は店、プライ ベートはプライベートということだろう。藤村はライターを擦り、最初の煙を吐き出した。
「俺がゼブラに興味を持っていることを誰に聞いたんだ」
 彼女は再び指先でグラスの氷をかき混ぜた。
「宮田と金森さんが話しているのを聞いたのよ。あなたがゼブラのことを知りたがっているって。……今日、 あなたが店に来る前のことよ」
「いいだろう。もうひとつ聞こう、何故俺をここに誘ったんだ」
 彼女は藤村の視線を受け止めて穏やかな声で言った。
「あなたが面白そうなひとだから」
 藤村は灰皿を手元に引き寄せた。
「嘘がへたなんだな」煙草を人差し指で叩き、灰を落す。「もっと上手な嘘がつけないと、 今の仕事は勤まらないぜ」
 みゆきは黙って藤村の手元を見ていた。やがて、手を伸ばし、テーブルの上に置いていた藤村の煙草を一本 抜き取った。藤村がライターをガラスの上に滑らせると、彼女は小声で、ありがとうといって火を点けた。
「宮田の弱みを知ってるんだったら教えてもらおうと思ったのよ」
 ぼそりと彼女が言った。藤村は煙草をくわえたまま頷いた。
「さっきよりはましな嘘だ」
 みゆきの頬に赤みが差した。
「何が言いたいの?」
 藤村は答えずにグラスを傾けた。彼女はもう一度口を開きかけ、閉じた。掛け時計が、鐘の音 を巧みに真似た電子音で二回鳴った。みゆきの頬の赤みは徐々に引いていった。しばらくして、彼女は呟くよう に言った。
「何を勘ぐっているのか知らないけど、私の言うことを信じてもらえないんなら、このまま帰ってくれても いいのよ」
 藤村は灰皿に煙草を押しつけた。
「持ってきてくれないか」
「えっ?」
「ゼブラだ」
 みゆきは藤村の顔をあきれたように見つめた。
「勝手なひとね」
 それでも彼女は自分の煙草を消して立ち上がると、リビングを出ていった。
 部屋の中には、時計が刻む音だけが響いている。近くを国道が走ってい るのだが、この部屋までは車の騒音も届かないようだった。
 彼女が茶色いガラス瓶を手に戻ってきた。テーブルの上に置くと、ガラス同士が触れ合う冷たい音がし た。
「ゼブラよ」
 藤村は瓶を手に取った。


 
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