アズアドッグ
18
瓶の中、タブレットが透けて見えていた。半分ほどしか残っていない。
「どこから手に入れたんだ」
みゆきは口元に笑みを浮かべた。
「あなたに言わなくちゃいけないことかしら」
彼女は藤村の手から瓶を取り上げた。キャップを開け、手のひらに二錠乗せた。口に含み、グラスに
残っていたバーボンで流し込む。今度ははっきりと、喉が音をたてた。彼女はキャップを開けた
まま藤村に瓶を返した。
「あなたなら三錠飲んでも大丈夫じゃないかしら」
藤村は瓶を傾け、タブレットを出した。口に放り込み、そのまま嚥下した。
「お酒で飲み込んだらいいのに。ゼブラとアルコールは相性がいいのよ」
彼女の言葉を聞き流し、新しい煙草に火を点ける。半分ほど吸ったところで、煙草を挟んだ指先
に違和感を覚えた。巻紙の手触りが妙に生々しく感じられる。何か煙草と違うものを持っているよう
だった。頭の上で小さな電子音がして、照明がゆっくりと落ちていく。みゆきがいつの間にかリモコン
を手にしていた。部屋の中、お互いの表情がどうにか分かる程度の光だけが残った。藤村の煙草の火
が薄闇に赤く浮かんだ。
「ねえ、どうしてゼブラって呼ばれているか知ってる?」みゆきは藤村の肩に頭を預けた。
「効き始めに目の前が明るくなったり暗くなったりするからよ。もちろん、そうならないひともいるよう
だけど」
藤村は煙草を消した。指先の違和感は強まっていた。感覚が異常に鋭敏になっている。脳から直接、
指が生えているような感じだった。
「理由はもうひとつあるの」みゆきが口を藤村の肩に押しつけながら含み笑いをした。「ゼブラ
を飲むと男のひとは馬のようになるからよ」
彼女は、左手で藤村のシャツのボタンを外しながら、唇を彼の胸へと這わしていった。弾力の
ある膨らみが彼の腕に押しつけられた。藤村は彼女のシャツの裾から手を差し込んだ。乳房を下か
ら掴む。下着は着けていなかった。彼の指先が既に硬くなっていた突起を探り当てると、彼女は小
さなうめき声を漏らした。
彼女の湿った舌先が身体のあちこちを這い回った。どこを舐められていて
も、まるで脳の襞を舌でくすぐられているように感じられる。藤村は彼女の服を一枚一枚、剥が
していった。彼女も口を休めないまま、藤村の服を脱がしていく。彼女の身体から取り去るものが
なくなると、藤村はソファーに座ったまま彼女を抱え上げた。脚を開かせ、ゆっくりと自分の上に落と
していく。身体が沈んでいく間、彼女は顎を上げ、口を叫びのかたちに開いてい
た。だが、唇が震えるだけで、そこからは声が発せられることはなかった。一旦、深く身体を合わせた
後、ふたりは律動を始めた。同時に頂点に達するまでに、わずかの時間しか掛からなかった。終
わってしばらくの間、みゆきは上半身を震わせ続けていた。
「ベッドへ行きましょう」
震えが納まると、彼女は藤村の耳元で言った。
寝室のダブルベッドの上で、ふたりはもう一度ゼブラの効き目を試した。みゆきは藤村の上で、下で、
何度も達した。
「どうだった」
ようやく呼吸の落ち着いたみゆきが、藤村の胸に頬を押しつけたまま訊いた。身体はぐったり
と疲れているのに、眠気は全く感じなかった。
「値段だけの効き目はあるようだな」
みゆきは藤村の肌に軽く歯をたてた。
「ゼブラのことじゃないわ。私が、どうだったって訊いたの」
藤村は彼女の身体を押しのけ、上半身を起こした。
「煙草はないのか?」
みゆきはヘッドボードの端に置いてあった煙草を藤村に手渡した。火を点けるとメンソールの味
が口の中に広がっていった。それでも煙草がないよりはましだった。みゆきも起き上がると、煙草
に火を点けた。形の良い胸がむき出しになっていた。
「ねえ、さっきのことはもう訊かないの?」
「何のことだ」
「私が何故あなたをここに誘ったのか」
藤村は、煙草の火に赤く照らされた彼女の顔を見た。
「宮田の指図だろう」
彼女は目で頷いた。
「お見通しなのね。そう、あなたをたらしこめって言われたのよ」彼女は藤村の顔を窺い
見た。「宮田は、あなたをいたぶるのを楽しんでいるわ。少しずつ汚い世界へ引きずり込むのが嬉
しくてしょうがないみたい」
「君は、俺が途中で逃げ出さないための楔みたいなものか」
みゆきは笑わなかった。
「宮田とはどういう関係なの。教えてくれてもいいでしょう」
藤村は煙草を挟む指先にいつもの感覚が戻っているのに気が付いた。ゼブラの効き目は去ろうと
していた。
「宮田は覚醒剤の売人だった。子供相手に商売しているところを、俺が逮捕した。ずいぶん昔の話だ」
レースのカーテン越しに差し込むわずかな月明かりに、彼女の驚く表情が浮かんだ。
「あなた、警察のひとだったの」煙草の灰がシーツの上に落ち、彼女は慌てて払いのけた。「でも、
どうして、そんなひとが宮田なんかに雇われているの」
彼女が宮田の名前を口にするとき、そこには微妙な響きが含まれていた。憎悪、蔑み、怖れ、あ
るいは愛情。藤村には読み切れなかった。
「形の上は依願退職だったが、実際のところは罷免だ。警察を罷免になった男など、どこも雇ってくれ
はしない。だが、金は必
要だ。そんなとき、どこから聞きつけたのか、あいつが声を掛けてきた。働くつもりはないかと」
みゆきは小さく首を振った。
「わからないひとね。自分が逮捕したことのある男の下で働く気になるなんて」彼女は藤村の横顔
を見つめた。「そんな風には見えないのに」
「男に囲われていながら、その男に言われるまま、他の男に抱かれる。――君もそんな風な女には
見えない」
みゆきは噴き出した。
「まあ、いいわ。今はそういうことにしておきましょう」彼女は身を捻り、煙草を灰皿の上でもみ
消した。「それよりも、宮田があなたを憎んでいる訳が分かったわ」
藤村は馴染めないにおいの煙に目を細めながら、彼女の顔を見た。
「どういうことだ」
「服役している間に奥さんが消えたのよ。男と一緒にね。おまけに、その男は宮田の舎弟だったの
よ」
「宮田は結婚していなかったはずだ」
「ええ、そう。内縁の妻だったらしいわ」
みゆきは何かを思いだしたように、寝室の白い壁をぼんやりと見やった。藤村はしばらくその横
顔を眺めてから、壁に向かって煙を吐いた。みゆきの目に焦点が戻った。
「だから、宮田はあなたを憎んでいるのよ。何でも他人のせいにするひとだから」
「馬鹿げた話だ」
「彼にとっては馬鹿げてなんかいないわ。あなたをとことんまで追い込むつもりよ、宮田は。それ
も、猫が鼠をいたぶるようにじっくりと時間を掛けて」
彼女は身を捻り、灰皿で煙草をもみ消すと、ベッドを抜け出した。
「シャワーを浴びてくるわ」
月明かりにほの白く浮かんだ彼女の裸身が、ドアの向こうへ静かに消えていった。やがて、
遠くから水音が聞こえてきた。その音を合図に、藤村も煙草を消し床に降りた。
リビングには、ふたりがまき散らした
熱気の名残が感じられた。脱ぎ散らかした服を着け、テーブルに置いたままにしていた煙草を
上着に入れた。最後にもう一度灰皿を見る。――ほんの少
し吸っただけのケントの吸い殻。今は、それが何を意味するのか考えるのは億劫だった。
浴室の前を通るとき、まだシャワーの音は続いていた。マンションのドアを押し開け表へ出た。
午前五時。
金森の事務所を訪れるまでに一眠りはできそうだった。実際に眠れるかどうかは別に
して。
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