アズアドッグ



 白人が担架で運び出された。彼を刺した男は警官に両脇を抱えられて連行されていっ た。店に残ったのは、制服警官ひとりに私服の刑事ひとり、それに藤村だけだった。バー テンたちは、警官達が着く前に藤村が帰していた。
「こちらのお店の方ですね」
 警官が手帳を開きながら藤村に話しかけた。藤村は頷いた。私服 はダーツのボードが掛けてある壁に凭れかかり、藤村を見つめていた。彼は店に入ってき て以来、一度も口を開いてなかった。警官が続けた。
「まず、お名前を教えて下さい」
「藤村。藤村隆一」
 警官は漢字を確認しながら手帳に書き留めた。
「この店の責任者ですか」
 藤村は曖昧に頷く。
「では、状況を説明してもらえますか」
「白人は八時過ぎからカウンターで飲んでいた。加害者は九時頃やってきてすぐに白人と 口論を始めた。しばらくすると、ナイフを出して白人を刺した」
 それだけかというように、警官は制帽の下の眉を動かした。
「口論の原因はなんでした?」
「本人に訊いてみて下さい」
「二人が言い争うのを聞いてなかったんですか」
 藤村は首を振った。
「誰か他に聞いていたひとはいないんですか……。バーテンはどうしました」
「帰しましたよ。時間給だから無駄に店に置いておくわけにいかない」
 わずかに残っていた好意的な色が、警官の目から引いていった。
「いいでしょう。ただ、その方たちには改めて話を訊くことになるかも知れませんよ」
 藤村は自分の顔を見つめ続ける私服の男に目を移した。知らない顔だ。だが、むこうが 自分のことを知っていても不思議はない。
 警官は低い声で続けた。
「加害者はこの店にはよく来ていたんですか」
「知らない」
「被害者は」
「知らない」
「二人は知り合いのようでしたか」
「分からない」
 警官の顔が赤くなった。
「協力してもらえないようですね。そういう態度はいい結果を生みませんよ」
 藤村は小さく笑った。馬鹿にした訳ではない。自分の置かれている立場が不意におかしく なっただけだ。警官の目が細くなった。警官がこういう目つきをするのは良くない兆候 だった。
 私服が壁から背を離し、警官の横に並んだ。
「あんたがどうしてこんなところにいるのか知らんが、我々の仕事は良く分かってもらっ てるはずだ。なあ、藤村さん」
 私服の顔をもう一度見た。やはり、見覚えはない。多分、どこかで目にした自分の名前、 あるいは顔を覚えていただけなのだろう。私服は怪訝な表情をしている警官に、元同業者 だと教えてやった。それを聞いて、警官の顔がよけいに険しくなった。
 藤村は抑揚のない声で言った。
「俺は知っていることは全て話している。知らないことは知らない、ただそれだけだ」
 私服は藤村の顔から目を離さずに言った。
「この店の所有者がどういうやつか知っているんだろ」
 藤村は黙ったまま見つめ返した。私服は口の端を曲げて嗤った。
「どうやら、噂は本当のようだな」きびすを返してドアへ向かい、ノブに手を掛けると首だ けで振り返った。
「これから、この店はマークさせてもらうぜ」
 ドアにつけたカウベルがカランと鳴り、私服の姿は消えた。
「知り合いなんですか、春日井刑事と」
 閉まったドアに顎をしゃくりながら警官が藤村に訊いた。
「知り合いじゃない。そうなりたいとも思わないね」
 警官は初めて薄く笑った。だが、彼はすぐに生真面目な表情に戻り、バーテンの名前、 連絡先、それに藤村の連絡先を聞き出した。それが終わると、意外なほどあっさりと店を 出ていった。
 ひとりになると、藤村はモップで、床に散った血痕を拭いていった。テーブルの配置を 元に戻してしまうと、今晩、なにも起きなかったような気がしてくる。棚の中から封を 切っていないボトルを取り出し、店の電気を落としていく。酒と煙草の混ざったにおい。 明かりを消すとよけいに濃くなる。藤村はそのにおいが嫌いではなかった。
 鍵を掛け、ボトルを抱いて駐車場へと向かう。街灯のない路地を歩いていると、不意に 宮田の声が蘇る。見せしめ……か。宮田はあの場面を自分に見せるために、わざとあそこ で事件を起こしたのだろう。俺に無力感を味わせるために。
 藤村は車のロックを外し、助手席にボトルを投げ入れた。イグニッションを回し、アク セルを踏み込むと、型オチで買ったセダンは、車体を揺らしながら夜の街へと滑り出て いった。
 藤村は車を家へと向けた。誰も待つものがいない家へと。