アズアドッグ

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 金森は二時間掛かりで、インターネットの使い方を藤村に教え込んだ。
「これで、他のページに載ってるクスリの値段をチェックしてもらったらええ。いわゆる、市場調査っていう やつですわ」
 それが藤村の明日からの仕事ということになった。もっとも、ふたりともそれを真面目にとっている訳では なかったが。
 金森に別れを告げて建物の外に出ると、砂を含んだ風が藤村のコートを激しく打った。傾き掛けた陽が頼りない光をアス ファルトの上に投げかけている。彼は路上駐車していた車に乗り込み、アズアドッグへと向かった。 無性に酒が飲みたかった。
 午後四時。バーテン達はまだいなかった。カウンターの後ろからボトルを引き出して中身をグラスに注いだ。 最初の一口を含んだとき、ドアが勢いよく押し開けられた。カウベルが激しく鳴った。
「ぴんぴんしてるじゃねえか」
 踊り続けるカウベルの下、春日井刑事が拍子抜けした顔で立っていた。
「私が元気じゃ悪いような口振りですね」
 春日井は鼻を鳴らすと、カウンターへ歩み寄り、藤村の隣に腰を下ろした。
「水をくれないか」
 近くで見ると春日井の額には汗がびっしり浮き出ていた。藤村はカウンターに入ると、 氷を入れたグラスにミネラルを注ぎ、 春日井の前に置いた。彼は一気にそれを飲み干した。
「水道水じゃねえか。あくどい商売をしてるな」
「うちのバーテンは素直な奴ばかりでね」
 藤村はスツールに戻った。春日井は忌々しそうに舌打ちした。
「あんたみたいな奴のために、急いで来て損したぜ」
「一体、何の用です」
 言いながら、背筋を良くない予兆が這い上がってくる。
「ボブ・ターナー」春日井は口に含んだ氷のかけらをかみ砕いた。「知っているか?」
 藤村は頷いた。手に汗が滲むのが分かった。春日井が続けた。
「そいつに頼まれたんだ。あんたの様子を見てきてくれとな」
「ボブがどうしたんです?」
 春日井は、グラスを持っていない方の手で藤村を制した。
「まあ、慌てなさんなって。彼は無事だ。手ひどく痛めつけられてはいるがね。今は、病院のベッドの 上だ」
 怒りに歪んだ林の顔。暗闇に透けて見えたその表情が、藤村の脳裏に蘇った。
「どんな具合なんですか」
「一週間や二週間はおとなしくしておく必要がある。後に障害が残るようなことはないだろう。医者が そう言っていた」
 林がボブを探し出したのか、それとも、ボブの方から林に接触したのか。藤村は グラスを握りしめていた力を、春日井に悟られないようにそっと抜いた。
「あんた、ボブっていう奴とどんな関係なんだ」
 藤村はボトルの首を持ち、グラスにできるだけゆっくり、酒を満たしていった。春日井はいらついたようにカウ ンターを指先で叩いた。藤村はボトルを置き、刑事と顔をあわせた。
「この店の常連ですよ、ボブは」
 春日井は口をきつく結び、その隙間から声をひねり出した。
「じゃあ、聞こう。あいつがベッドの上で、あんたの様子を見てきてくれと俺 に頼んだのは何故だ」
 藤村は溢れかけていた液体を一口啜ってから、グラスをカウンターに戻した。
「少し前のことです。あいつが、この店でトラブルを起こし たことがありましてね。そのとき私が彼を投げ飛ばしたんですよ。きっと、そのことを根に持っていて、意趣返しのつ もりで私の名前を出したんじゃないかな。――刑事が来て喜ぶ奴はいませんからね。たとえ何の用であろ うと」
 春日井は藤村の顔から目を逸らさなかった。
「よく喋るじゃないか、藤村さんよ。あんたがそんなに饒舌だとは思っていなかったぜ」
 春日井は筋張った頬に、無理矢理笑みを浮かべた。グラスを掴んだままの指先が白くなっていた。
「ボブもあんたも宮田の片棒かついで、クスリを売って回ってるんだろうが」春日井は突然唾を床に吐 いた。「どうせ分かってることだ。お喋りついでに謳っちまいな」
 藤村は春日井の唾が、使い込まれた木の床に滲んでいくのを見つめていた。何故かそれから目が離せな かった。そして、それは彼をたまらなく不快にさせた。春日井は喋り続けた。
「宮田がクスリを扱ってるのは、あいつを挙げたこともあるあんたが一番よく知っているはずだ。それ を承知であいつに雇われたんだ。あんたがどんなことをやらされているか、おおよその見当はつくぜ。なあ、 藤村さんよ、いい加減に――」
「宮田は今でもシャブを扱ってるのか?」
 藤村の鋭い口調に春日井は一瞬言葉を失った。しかし、すぐに皮肉な調子で答えた。
「本気で訊いてるのか? まあ、いいだろう、宮田は今でもシャブを売ってるさ、十中八九な」
 藤村はそれを聞いたまま黙り込むと、壁の一点を見つめ、身じろぎもしなかった。春日 井はしばらく、その様子を黙って見ていたが、やがて首を振り、立ち上がった。
「いくら、ここで顔を付き合わせていても無駄なようだな。全く、何を考えてるんだか分からんぜ、あ んたは」
 筋肉質の体躯がスツールから滑り降りた。ドアまで歩いていくと、ノブに手を掛け振り向いた。
「何故、訊かなかったんだ?」
 藤村は面倒くさそうにスツールの上の身体を捻った。
「何をです?」
「誰が、ボブを痛めつけたのか、さ」
 藤村は答えなかった。どこかの馬鹿が鳴らすクラクションの耳障りな音が表で響いた。
「まっ、少なくともそれには心当たりがあるようだな。せいぜい気をつけることだ」
 彼の姿がドアの向こうに消えていった。
 藤村がボブの病院を聞くのを忘れたことに気が付くまで、それから更に二杯分の時間が掛かった。

 
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