アズアドッグ
21
十一時を過ぎると店は立て込み始める。今日も例外ではなかった。天井には煙草の煙が白
く淀んだ層を作り始めていた。エリック・ドルフィーが激しくBOZEのコーンを揺らし
ていたが、その音でさえ煙を蹴散らすことはできなかった。
黒革のコートを着た男が店に入ってきて、真っ直ぐカウンターに歩み寄った。男はバーテ
ンに声を掛けてから身体を反転させ、カウンターに背中を預けると、店内をゆっくりと見渡
した。その視線が奥のテーブル席に座る藤村を捉え、そこにしばらく留まった後、離れて
いった。バーテンが青い液体を満たした足の長いグラスを手に、男の背中へ声を掛けた。男
はポケットからコインを取り出し、カウンターに打ち付けた。そして、左
手でグラスを掴むと一気に中身を呷って、空になったグラスを戻した。男はカウンターを突
き放すようにして離れると、女の子達の値踏みをしながら、ふらふらとテーブルの間を縫って
店の奥へと歩いていった。
男は藤村の向かいで立ち止まった。左手で椅子を引くと、そのはずみに、コートの
下から包帯を巻いた右手が覗いた。
「結構な身分じゃねえか」椅子に座り、林が言った。「酒を飲みながら女の尻を眺めてりゃ
金になるなんてよ」
藤村は答えた。
「コートぐらい脱いだらどうだ。暑いだろう。それとも、包帯を見られたくないのか」
林は椅子の背もたれに身体を押しつけ、目を細めて藤村を見た。
「面白いな。面白いよ、お前」
「俺は面白くない。何か用があるんだったらさっさと済ませて、失せろ」
高い頬骨の下の薄い肉が痙攣した。だが、怒りがそうさせたのではなかった。林は
笑っていた。
「とんだ、ご挨拶だな。こっちは、せっかくあんたの友達のことを教えてやりにきたっていう
のに」
林は言葉を切ると、藤村の反応を待った。藤村はカウンターの中でバーテン達が忙しげに
動き回るのを眺めているだけで、何も喋らなかった。林が天気のことでも話しているような
、さりげない口調で続けた。
「あの外人の坊や、怪我をしたらしいぜ」
藤村は、顔を背けたまま口を動かした。
「あんたがあいつを探し出したのか」
しばらく間があった。やがて、林が小さく鼻を鳴らした。
「もう、知っていたのか。耳が早いな。まあ、いいだろう。――坊やが宮田さんに連絡して
きたのさ。ロンから宮田さんの電話番号を聞き出してね。もう、ロンにかまわないでやって
くれって頼んで来たんだ。まるで、親が子供のことを心配するような口振りだったらしいぜ」
林はコートのポケットからマルボロを取り出し火を点けた。「一度、話し合おうじゃないか
と呼び出して、俺が相手をしてやった。どうも、その帰りに、どこかのやくざ者に絡まれて
怪我したらしいな。お気の毒様」
「ロンはどうなるんだ」
林は細い眉毛を、おかしなことを聞くとでも言いたげに、つり上げた。
「ロンは大人だぜ。自分のやりたいようにするさ。お前もあの坊やも勘違いしているようだが、
俺達はロンに何も無理強いなんかしちゃいないんだぜ」
「じゃあ、ボブはまるっきりやられ損っていうわけか」
林は煙を天井に向けて噴き上げた。
「随分手加減したんだぜ。あまりことを大きくすると宮田さんに迷惑がかかるからな」
藤村は林の顔に視線を移した。
「で、次の指名が俺だっていうことを教えに来てくれたのか」
林は煙草をくわえたまま首を横に振った。
「残念ながらそうはいかない。お前は宮田さんのおもちゃだからな。――宮田さんのおもちゃ
で俺が遊んで、壊しちまうわけにはいかないだろ。ま、宮田さんが飽きて放り出したときにゃ
相手をしてやるぜ」林はコートに付いた灰を神経質に払った。「もちろん、宮田さんが、
それまでにお前を壊してしまってなけりゃだがな」
「えらく宮田には従順なんだな。そんなに奴が怖いのか」
林は急に身体をテーブルの上に乗り出すと、煙草を挟んだ指先を藤村の顔に突きつけた。
「ああ、怖いんだよ。ひとを殺した奴なんていくらでもいるし、屁とも思わないがね。女や
子供も平気で殺せる奴なんてのは案外、いないもんだ」
「宮田が女や子供を?」
「噂だがな。だが、実際、あのひとなら相手が誰でも躊躇することはないだろうさ」
林は身体を元に戻した。
「だが、ただ冷酷なだけじゃない。ロンを刺したときだってそうだ。あれで奴はすっかりぶ
るっちまって、もう二度と宮田さんに逆らうことはない。実に、スマートなやり口だ。なあ、
そう思わないか」
藤村はそれには答えず、グラスを持ち上げると、林の前で傾けていった。バーボンがこぼ
れてテーブルの上に溜まり、広がった。それはやがて、テーブルの縁を越えて林のコートを濡らし、
床にしたたり落ちた。
「何の真似だ」
林が動かないまま言った。
「犬じゃ、グラスから酒が飲めないだろう。さあ、舐めろよ。遠慮することはないんだぜ」
林が立ち上がった。
「出ようぜ」
バーテンが怪訝な表情で見送る中、ふたりは店を出た。階段を下りると道路の反対側に停め
てあったクラウンのドアが開き、男がふたり出てきた。この前の夜、駐車場で藤村を取り囲んだ男
達だった。林は男達を手で制すと、藤村を振り向き、ついてこいと顎をしゃくった。
この前と同じ駐車場。人影はなかった。林はコートを脱ぐと停めてある車のボンネットに
無造作に放り投げた。
「右手が使えないからって遠慮することはないぜ」
林はそう言うなり、身体を回し、蹴りを放った。藤村は左腕でガードし、飛び下がった。
藤村は、以前、警察の道場で、空手有段者だった同僚の蹴りを受けたことがあった。林の蹴りは
その感覚を思い出させた。しなやかでいて重い蹴りだった。どうにかして組んでしまえば、右手
の使えない林を圧倒することはできるだろう。だが、その前に林の蹴りをくわずには済みそうにな
い。もしうまくいったにしても、林の形勢が悪くなれば、どこかで様子を窺っている仲間が出て
くるだけだ。いずれにしても結果は見えている。
「どうした、俺とやりたかったんじゃねえのか。今更待ったはきかんぜ」
藤村はその言葉が終わる前に、林の間合いに飛び込んだ。脚が思わぬ方から飛んでくる。脇腹。
息が詰まる。どうにか林の身体を捉えようと、じりじり近づくが林はバックステップしながら脚
を休み無く繰り出し、藤村にチャンスを与えなかった。左右のガードに気を取られ、強烈な前蹴
りを鳩尾にたたき込まれる。車のドアミラーに掴まり、倒れるのだけは免れた。
「宮田さんに手を出すなと言われているから、俺が何をされても黙ってるとでも思ったのか
い。まったくふざけた奴だぜ」
林が一歩踏み出した。
「おい、お前達、そこで何をしている」男の声が駐車場の入り口の方から上がった。「警察
を呼ぶぞ」
林の足が止まった。薄い笑みが頬に浮かぶ。
「今日はこれまでだ。いつでも相手になってやるぜ。じゃあな」
彼はコートを掴むと、足早に自分の車の待つ方へと去っていった。その背を見送りながら、急
に増幅し始めた脇腹の痛みに、藤村は思わず膝をついた。痛みを和らげるために深呼吸している
と、後ろにひとの立つ気配がした。
見上げると、須賀見の戸惑いを浮かべた顔があった。
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