アズアドッグ

28


 目覚めたときには正午を回っていた。みゆきの夢をみていたようだったが、はっきりとは思い出せなかった。 ただ、切れ長の目を吊り上げて怒る彼女の顔だけが、しばらく頭を離れなかった。藤村は酒の臭いの染 みついたシャツを替え、黒革のコートを掴み部屋を出た。
 今日は、チャイムに応えてドアを開けたのは金森だった。
「昨日も来てくれたんやて。なんせ、野暮用が多いよってに留守にしてばっかりや。すんまへんな」
 藤村を招き入れると、金森はコーヒーメーカーをセットした。すぐに香ばしい匂いが立ち上り始める。 藤村は取り出しかけた煙草を懐に戻し、その香りを楽しむことにした。加納は何も気にして無いかのよう に、ただ黙々とキーボードを叩いている。
「いやー、参ったわ。ここんところゼブラの値段が下がる、下がる。もう、あんまり儲けになりまへんわ。 早いとこ次の目玉商品を見つけんと、ここも畳むはめになるで」
 そう言いながら藤村にカップを渡す。口で言うほどには困っていないようで、頬には笑みが貼り付いて いる。
「月にどのぐらい稼ぎがあるんだ? ここだけで」
「まあ、二三百いうとこですわ。その半分以上がゼブラの儲けや。ゼブラがあかんことなったら、 お手上げいうわけや」
「本当のところは、ここを閉めて大阪に帰りたいと思ってるんじゃないか」
 金森は悪戯を見つけられた子供のように頭を掻いた。
「かなわんな、藤村はんには。ま、図星やね。早う手を切りたいんや、正直なところ」
「だが、宮田がそう簡単にはここを閉めさせてくれないだろう」藤村はパソコンを置いてあるデスクに腰を 掛け、コーヒーを啜った。「奴にとってはここから上がる収益なんて二の次だ。ここで店をはっている目的 は他のところにあるんだからな」
 金森は肩をすくめた。何のことか分からないと言いたげだった。藤村は続けた。
「ここは客寄せの窓口なんだろう。上客には奥の別室が用意されてるってわけだ」
「ちょっと、待ってや、藤村さん。何のことを言ってるのかさっぱり分かりまへんで、わてには」
「分からないで結構。黙って聞いてくれ」手をせわしなく動かしながらも、加納が背中を耳にしているのが 藤村には分かっていた。「こんな段取りなんだろう。――クスリの好きな奴がインターネットでここのホーム ページを見つけて注文をしてくる。たとえばゼブラをだ。あんた達はストックの中から商品を送る。そうし たやり取りを何度かしているうちに、あんた達はカモを選び出す。頻繁にオーダーをかけてきて、 まともな社会生活をしている奴だ。住所も名前も分かっているからどんな人間かを調べるのは簡単だ。そして、 そのカモに連絡するわけだ。もっといいクスリがあるが、試してみないか、とな」
 金森は首を振った。肉のだぶついた頬が哀しげに震えた。
「どこでそんなことを吹き込まれたんや。そんなアホなこと信じるひとがありまっかいな」
 藤村はもう一口コーヒーを飲んだ。加納の叩くキーボードの無機質な音だけが部屋に響く。 金森は持っていたカップをデスクの上に置くと、ため息をついた。
「まあ、ええ。どう思おうとあんたの勝手や。ただ、宮田はんにはそんなこと言うんやないで」
「分かっている。奴に言えば、あんたから聞いたと勘ぐるだろう。迷惑がかかるようなことは しないさ」
 金森は哀れむように首を振った。
「わてのことはどうでもいいんや。心配してるのはあんたのことや」金森は窓の外の景色に 目をやった。「あんたと宮田はんのことはよく分からんが、宮田はんが何を考えてるのかは大体見当 がつく。あのひとは、あんたがこの仕事に自分から深入りしていくのを楽しんでるんや。最後にあんたを どうするつもりかは知らん。だが、あんたにとっていい結末じゃないことだけは確かや。あんたがさっき わてに言ったことを宮田に言えば、あのひとの思うつぼになるだけやで」
 覚醒剤の取引にまで関われば、後は宮田に操られるデク人形になるしかない。宮田がその気になれば、 いつでも警察に藤村を売り渡すこともできる。元警官の売人。格好の新聞ネタになるだろう。ただ、それでも ましな方で、宮田は藤村にもっと惨いストーリーを用意しているのかもしれなかった。だが、いずれにしても、 できるだけ深く首を突っ込んでいくしか、今の藤村に道はなかった。
「何もかも承知してるっちゅう顔やな。しゃあない、好きなようにしたらええわ」
 金森はカップを手に取り、音を立ててコーヒーを啜った。藤村が初めて見る金森の不機嫌そうな顔だった。
「ついでに、ひとつ教えてくれないか。実際のモノの受け渡しはどうやってやっているんだ」
 金森はあきれたように藤村を見た。
「わて達は、顧客のリストを渡すだけや。後は、宮田はんのところの連中がうまいことやりよるわ。だから、 詳しいことは知らんのや、わては」
 藤村は黙って金森の目を見つめた。やがて、それに耐えかねたように金森が目を逸らし、しゃあない なあと呟いた。
「これやと思うた奴に電話を入れるんや。もっと違うクスリを試してみるつもりはないかってな。 まだ、日本に入ってきている量が少ないから、ネット上で売るわけにもいかん商品や、リサーチを兼ねて使って もらえへんか、と誘うわけや。相手が乗ってきたら実際に会って売りつける。なかにはこっちの売り文句を まるまる信じとる奴もおるが、大体は、やばいクスリやと承知の上で買いよるわ」
「そんなに簡単にいくものか」
「その辺が、宮田はんの賢いところや。電話をするのも、客に会わせるのも、女の子を使いよる。 その方が客の警戒心も随分和らぐよってにな。買い渋る客には、クスリとセットで女の子を抱かせることも あるらしいで」
 藤村はわざと声を落として訊いた。
「胡蝶蘭の女の子を使っているのか」
 金森は頷いた。
「あそこの店の客にも売っているようや」
 目の端に映っている加納の背中が強張るのが分かった。だが、金森はそれに気付く風はなかった。加納の 姉が胡蝶蘭にいるみゆきであることを、彼は知らないのだろう。金森はマイルドセブンを取り出し、火を点けた。
「そういえば、藤村はん。胡蝶蘭のみゆきちゃんにも気を付けた方がええで。あの子は宮田はんとつうつう やさかい」
 藤村は口を歪めて笑った。加納が画面から目を離し、まじまじと藤村の顔を見た。
「見た目は菩薩やけど、あれできついとこがあるんや。胡蝶蘭の前のママを店から追い出したのもみゆき ちゃんやいう話やしな」
 

 
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