アズアドッグ
29
「それにもうひとつ」金森はただでさえ大きな鼻の穴を膨らませ、煙を吐き出した。
「宮田はんのところに林っちゅう奴がおんのやが、こいつがみゆきちゃんにぞっこんなんや。
そやけど、宮田はんの目があるもんで、ちょっかいはようださん。――もし、あんたと
みゆきちゃんになんかあったら、あいつが黙ってへんで。きっと」
コーヒーを飲み干し、藤村も煙草を取り出した。
「ありがとう、覚えとくよ」
やっかいなことになるかも知れない。藤村は思った。林は、宮田に遠慮してこっちに手を出し
てこないが、みゆきとのことが知れれば、何をしてくるか分からない。いずれは、かたをつ
けねばならないのは分かっている。だが、しばらくは林とことを構えたくなかった。今は、辰野
の件を探ることに専念していたい。
金森は縮れっ毛の頭をかきむしった。
「ああ、なんでこないに余計なことを言うてしまうんやろなあ。……しゃあないか。なんか
あんたを見てると見殺しにでけん気がすんのや、藤村はん。一番ええんは、さっさと宮田はん
と手を切って、どっかに姿をくらますことやで、ほんまに。そんなこと言うたかて、聞く耳
持ってるひととちゃうんやろうけど」
「それはあんたも同じ事だ。宮田とはさっさと手を切った方がいい。もし、借金のかたがついたんなら」
金森は、一瞬いぶかしげな顔をしたが、すぐに加納の後ろ頭をにらんだ。
「加納ちゃん、いらんこと言うたらあかんがな」
加納は振り返りもせず、軽く肩をすくめた。金森は藤村の顔をまぶしげに見やった。
「これが好きでなあ」彼は馬の尻に鞭をいれる仕草をした。「好きな割には、あきまへんのや
これが。で、借金は雪だるまっちゅうわけですわ。まあ、どうせ畳の上では死ねへん人生やさ
かい」
藤村は苦笑いで応えると、身体を捻りパソコンのスイッチを入れた。手順を
思い出しながらインターネットに繋ぎ、ホームページを開いていく。確かに、金森がいうように
ゼブラの市場価格は急速に下落していた。そして、それに代わるような有力商品はどこのホーム
ページでも見つからなかった。金森が藤村の横から画面をのぞき込んだ。
「な、あきまへんやろ。睡眠薬なんてのも、そないに量がでまへんしなあ。ヒット商品を出す
のに比べたら、万馬券当てる方がよっぽど楽でっせ、正味なところ」
「そんなもんかな」
藤村はパソコンの電源を切った。金森が身体を起こして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、最近リピートの客も減っとんのや。お馴染みさんからの注文がさっぱりあらへん。
それもひとりや、ふたりのことちゃうで。……なあ、加納ちゃん」
加納は作業を止めないまま、そうですねと気のない返事をした。
「そうなんや。ゼブラもあかんし、他のクスリもこの調子じゃあ、いつ宮田はんに呼び出しくろうても
おかしゅうないわ。くわばら、くわばら」
そう言い置き、でっぷりとした身体を揺すりながら、トイレへと向かった。藤村は肺に溜めた煙草の煙を、
加納の前の画面に吹き付けた。
「いつ頃からのことなんだ。リピートの客が減ったのは」
加納は、横目で藤村を見たが、すぐに画面に視線を戻した。
「さあ、ここ一ヶ月ぐらいじゃないですか。…何故?」
藤村は加納の使っているデスクの引出を顎で指した。
「昨日渡したフロッピーはそこに入っているのか」
キーボードから手が離れた。
「金森さんもさっき言ったでしょう。あなたは余計なことをしない方がいいんだ。いや、余計なことを
するのはあなたの勝手だ。だが…」回転椅子を回し藤村と向かい合った。「僕の邪魔はしないで
くれ。そうしないと、あなたに何が起きるか分かりませんよ」
「一人前のことを言うじゃないか」
加納の耳が徐々に赤くなった。もう一度口を開きかけ、思い直して唇をきつく結んだ。そして、何も話すこと
はないとでもいうように、椅子を回してパソコンに向き直った。
トイレの水を流す音がして、金森がズボンをずり上げながら出てきた。藤村は灰皿で
煙草を押し消し、椅子を立った。
「今日は、これで帰るよ。じゃあ」
「なんや、もうかいな。話し相手がおらんと寂しいがな」
「また、明日覗きに来るさ」
未練がましく引き留める声を聞きながら、藤村は部屋を後にした。
エレベータには相変わらず胸の悪くなる臭いが詰まっていた。一階で降り、外の空気を吸い込む。
「あんたが藤村か?」
左手から巻き舌の声がした。肩の下まで茶色い毛を伸ばした若い男が立っていた。返事のないのを
肯定と取ったのか、男はエントランスの奥へと顎をしゃくった。藤村は男に従った。
そこは、郵便受けが
並んでいて、入り口からは死角になっていた。そして、そこにはもうひとり男がいた。ひとりめと同じ
ように渋谷あたりが似合いそうな男だった。違うのは、最初の男は藤村と同じ程度の体つきだったが、
そいつはゆうにふた回りは大きいことだった。
「伝言がある」
その男が口を開くと、唇につけている三つのピアスが揺れた。
「余計なことはするな。――それだけだ」
藤村は困ったような表情をつくった。
「何のことだ。誰からの伝言なんだ」
でかい男は、藤村の後ろに立っている相棒に視線を送り、また、藤村の顔に戻した。
「それだけ言えば分かると言われた。お前には分かっているはずだ」
藤村は首を振った。
「いいかい。伝言っていうのは、誰からのものか分からなきゃ、意味がないんだぜ。学校でそう教えて
もらわなかったか」
後ろの男が動くのが分かった。藤村は身体を沈めながら反転し、右足で男の膝の辺りを払った。
男は仰向けに倒れた。バタフライナイフが床の上を滑り、壁に当たって止まった。でかい男が向かってくる
のに、後ろ向きのまま突っ込み、肘を叩き込んだ。鳩尾を狙ったのが、脇腹に当たった。
だが、男には効いたようだった。腹を抱え込むようにして前屈みになった。その鼻に裏拳を打ち、両膝を床に
ついたところへ、組み合わせた手を首筋に落とした。男は床にゆっくりと突っ伏し、動かなくなった。
後ろにいた男は立ち上がっていたが、青い顔をして相棒が伸されるのを見ているだけだった。ナイフを
拾うことにさえ思い及ばないようだった。多分、抵抗しない奴をいたぶる方法は百通り知っていても、
まともな喧嘩の仕方は覚えるチャンスがなかったのだろう。藤村は男の胸倉を掴んだ。
「誰に頼まれたんだ。言えよ」
男は首を振った。藤村は平手で男の頬を叩いた。
「知らないんだ。本当に。……俺はタケシに誘われただけなんだよ」
藤村がもう一度手を上げたとき、不意に背後にひとの気配がした。だが、振り向くには遅すぎた。
後ろ頭を激しく殴られた。脳に電気が走った。藤村はでかい男と並んで床に倒れた。意識が遠のく際に、
馬鹿野郎となじる、バリトンの台詞が聞こえた。聞き覚えのない声だった。
30