アズアドッグ



『アズアドッグ』の夜はいつもと同じように始まった。
 昨日のことなど気に留めるものは誰もいなかった。
 藤村は椅子に座り、グラスを手で暖め続けていた。彼は温いバーボンが好きだ。酒は舌 と同じ温度のとき、本当の味がする。たとえそれが気に入らない味だとしても。
 彼がぼんやりとグラスの底の光を見ていると、テーブルに影が落ちた。
「珍しいな、藤村さん」
 須賀見はマティーニを手にしていた。彼が他の酒を飲むのを、藤村は見たことがな かった。
「何がだ?」
 藤村は前に座った須賀見に訊いた。
「初めて恋を知った少女、っていう感じの顔つきだ。似合わないな」
 均整の取れた身体、薄い唇、高い鼻梁、知的な額。鬢には少し白いものが混じり始めて いるが、充分に若く見えた。ミッドナイトブルーのスーツには皺ひとつない。
 須賀見はマティーニのオリーブをつまみ上げ口に放り込んだ。
「この店にはくだらないものが多いが、オリーブだけはいいものを使っている」彼はかみ 砕いた緑色の実を酒で流し込んだ。「だが、いくらうまくてもオリーブは先に食っちまわ ないと駄目だ。そうしないとマティーニの味を殺してしまう」
「それは何かの警句なのか」
 須賀見は意外そうな顔をした。
「警句? とんでもない。親父が教えてくれた中でただひとつ実践的なことさ」彼は藤村 のグラスを見た。「相変わらず、チェイサーも無しでやってるのか。身体を壊さないのが 不思議なぐらいだ」
「昨日も同じ警告を受けたよ」
「ほう、身体を心配してくれるひとでも出来たのか」
 藤村は口を歪め、ボトルに手を掛けた。
「おっと、待った。夢見心地になる前に、一勝負といこう」
 須賀見は先に席を立ち、藤村を促した。
 須賀見はクリフォードのハイノートに負けない鋭い口笛を吹き、バーテンを振り向かせ ると、肘を曲げる仕草をした。バーテンは頷き、カウンターの下からダーツを取り出した。
「この前は一杯ずつ奢りあったんだったな、藤村さん」二人はボードが掛けてある店の奥 へと、酔っぱらいをかき分けながら歩いていった。「そろそろ、ハンディを考え直さな くっちゃな」
「まぐれさ。あんたにダーツでかなう奴はいないよ」
「おだてても駄目だ。今日からあんたもダブルインだ。いいな」
 二人はダーツを投げ始めた。
 いつのまにかクリフォードは吹くのを止め、モンクが鍵盤を叩いていた。
 ラウンドミッドナイト。
 夜は穏やかに更けていった。
 何度目かの勝負を終えたとき、バーテンのひとりが近づいてきた。
「また、トイレで始めちまった奴がいるようです」
 藤村は須賀見に軽く頷き、ダーツをテーブルに置いた。
 彼はバーテンとともに、ふたつ並ぶドアの前に立った。
 ひとつにはボギーのパネルが貼り付けてある。もう片方のパネルは手でスカートを押さ えているモンローだった。バーテンはモンローの方を目で示した。藤村はドアを押し開け た。
 中に入ってドアを閉めるとクインテッドの音は遠ざかり、激しいあえぎ声がとって替 わった。声は二つある個室の奥の方から聞こえていた。藤村は洗面台の下からポリバケツ を拾い上げ、水を満たした。個室の前に立ち、バケツの中身を扉の上からぶちまける。
 声が止み、一瞬の後、罵り声とともに扉が開いた。金髪、アーミーカットの男だった。 藤村より十センチは背が高い。男は右肩を引き、藤村に殴りかかった。藤村は一歩引きな がら男の腕を掴み、腰を跳ね上げた。男の身体が浮き、マリンブルーのタイルの上に叩き 付けられた。男は何が起きたか分からないようだった。目を見開いたまま、天井を見上げ ていた。
 ヒールの音に藤村が振り向くと、トイレから出てきた女が彼の頬を平手で打った。派手 な音が響いた。女は男を跨ぎ越え、ドアを開けて出ていった。
 藤村は頬を撫で、ようやく立ち上がろうとしている男の側をすり抜けて外に出た。
 女はどこにもいなかった。
 藤村はバーテンに目で合図をして、須賀見のところへ戻った。
 バーテンは後始末をするためにトイレへ向かった。気の進まない顔つきだった。
「片づいたか?」
 須賀見はマティーニを啜りながら言った。
「ああ」藤村はもう一度頬をさすり、椅子に座った。「さかりのついた猫には水を掛ける に限る。だが、楽しみを邪魔されたメス猫には気を付けた方がいい」
「そりゃ何かの警句かい?」
「いや、お袋が教えてくれた中で唯一実践的なことさ」
「ふん、じゃ、もう一勝負いくか」
 今度は藤村があっけなく勝った。
「藤村さん、あんた上手くなったよ。どうだい、今度大会があるんだ。出てみないか」
「柄じゃないさ」
 須賀見はテーブルを離れ、ボードに向かって構えた。
「何にこだわっているのか知らんが、毎晩、薄暗いパブで酒を飲んでいるだけなんてつま らんぜ」
 彼の手を離れたダーツは、緩やかな放物線を描いてダブルブルに突き刺さった。
「軽く投げよ、さもなくば矢は的を得ず」須賀見は振り向き、頬を緩めた。 「これは掛け値無しの警句だ。なあ、藤村さん」