アズアドッグ

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 気がついたときには、壁に背を凭れて座っていた。殴られて床に伸びていたはずだったが、 おそらく、ただの酔っぱらいに見えるように、奴等が体裁を整えておいたのだろう。 藤村は後頭部に手を当ててみた。キウイを縦に割ってくっつけたような膨らみが出来ている。 血が出ていないのは奇跡だった。立ち上がろうとすると、床が歪み、壁が倒れかかってきた。 胃からこみ上げてきた酸っぱいものを吐いて、その場にへたり込む。その拍子に、めくれ上がった袖口から覗いた 腕時計が目に入った。それは金森の部屋を出てから二十分も経っていないことを告げていた。
 しばらくして、もう一度立ってみる気になった。今度はどうにかうまくいった。藤村はおぼつか ない手つきで自分の身体を探った。無くなっているも のは何もないようだった。 後ろを振り返ると、そこには二階に続く階段が薄暗い口を開いていた。頭を殴った奴はこの上 の踊り場に身を潜めて、成 り行きを見守っていたのだろう。藤村は呪いの言葉と一緒に、口に溜まった胃液の滓を吐き捨て、 ふらふらと歩き始めた。
 マンションの裏に停めていた車にようやくたどり着き、シートに深く身体を沈める。頭の芯が痺れる のを堪えながら、でかい男の鼻を潰した感触を思い出している内に、段々と気分が良くなってきた。他人の 苦痛は常に最上の鎮痛剤になるものだ。
 イグニッションを回し、車を出した。そのまま家に帰って何も考えずに寝てしまうつもりが、 ハンドルは自然とアズアドッグに向いていた。
 店にはまだ誰も出てきてなかった。藤村はロック用の氷をビニール袋に詰め、後ろ頭に当てながらバーボンを 啜った。吐き気はおさまっている。骨には異常がないようだ。
 彼はカウンターの向こうから電話を引っぱり出し、ダイヤルを回した。二回転送されて、 三分待たされた。電話の向こうで、一体どこの藤村だと、取り次いだ人物へ悪態をつく声が聞こえた。 その声の主は不機嫌な口調のまま受話器を取った。
「もしもし」
「アズアドッグだ」
「何だって?」
「アズアドッグの藤村だ」
 春日井が電話の向こうでうなった。
「この忙しいときに電話なんかしてきやがって。一体、何の用だ」
「頼みたいことがある」
「何だ」
「宮田が懲役をくらっていたときの資料を調べて欲しいんだ」
「何の寝言だ。部外者にそんな情報を教えられるわけないだろうが」
 春日井が電話を切り掛けるのを止めるために、藤村は声を張り上げた。
「宮田の商売のことを知りたくないか」
 受話器を再び耳にあてる気配がした。
「取引をしたいってことか」
「そんな大仰なことじゃない。宮田の昔のことを少し調べてもらえれば、宮田の今のことを教えてやれるか も知れないというだけだ」
「それを取引って言うんだ」
 そう言ってから、春日井はしばらく考え込んだ。
「いいだろう。何が知りたい」
「俺があいつを挙げたとき、結婚はしていなかったが、女は いたはずだ。その女の名前が知りたい」
「それだけか。そんな古いことを知ってなんになる」
「それはあんたには関係のないことだ」
 受話器の向こうから低い笑い声が聞こえた。
「ひとにものを頼むときの態度じゃないぜ」
「できるだけ早く知りたい」藤村は自分の携帯の番号を告げた。「分かったらすぐに電話をくれ」
 春日井が舌打ちをして電話を切った。藤村も受話器を置き、電話を元に戻した。
 四時半を過ぎてから集まり始めたバーテン達が、口々に頭のことを訊ねてくるのが嫌になり、 藤村は氷を流しに空けた。カウンターからいつものテーブル席に移り、バーテン達が店の準備をする のを眺める。やがて、ビッグバンドの ジャズがスピーカーから流れ始めた。近所のジャズ喫茶が潰れたときに、ごっそり引き継いだCDの 中の一枚だろう。バーテンのひとりが、口笛でトロンボーンのメロディーをなぞっていた。最近の若い奴の中 にも、こういう音楽を面白がるのもいるのだ。いずれにしても、頭の後ろに瘤を作った日に聴くには、 悪くない音楽だった。
 藤村は、誰がちんぴら達を雇ったのかを考えながら、グラスを傾け続けた。想像を重ねる内、いつしか 時計は八時 を回っていた。ふと、目を上げると、最近よく店に出入りしているおかまが、グラスを片手にカウンターで 盛んに喋り続けているのが見えた。相手はベビーフェイスの白人だった。いかにも迷惑そうに顔を顰め ている。藤村はこのおかまが誰かに まともに相手をしてもらっているのを、一度も見たことがなかった。ここに来る男達は、みな女が目当てだ。 おかまが網を張る場所じゃない。
 白人の坊やが吐き出すように何かを言った。おかまは表情を強張らせてカウンターを離れた。 彼が顔を上げた一瞬、藤村と視線があった。彼はそのままゆっくりと近づいてくると、ごく自然に、藤村の前の席に 腰を下ろした。
「あの子はあたしにはちょっと若すぎたみたい」
 舌っ足らずな喋り方だった。藤村はおかまの顔を見た。脱色した髪を肩の上で切りそろえ、内側に軽くカールさ せている。高い頬骨にはピンクの紅がさされ、はれぼったいまぶたはブルーのシャドウで塗り固められていた。離れて いたときには、二十代前半に見えたが、案外三十を越しているのかも知れない。
「ねえ、あんた案外いい男ね。あたし、本当はアングロサクソンが相手じゃないとダメなんだけど……」
 藤村は、おかまが続けるのを、グラスを持った手で遮った。
「あいにくだが、俺はもう使いものにならなくなってるんだ。ちょっとした事故にあってな」
 おかまは藤村の身体を遠慮のない視線で探った。
「そう、お気の毒ね。まだ、随分若いのに」
 細巻の煙草を取り出し、火を点けた。メンソールの香りが藤村の鼻先まで漂った。藤村はそれを避けるように 椅子の背に身体を預けながら言った。
「ここにくる外人に声を掛けても無駄だろう。うまくいったことがあるのか」
 おかまは鼻の付け根に小皺を寄せて笑った。
「全然。……でもいいのよ」紫色に染めた指先をひらひらさせた。「こうして、男達に邪険にされるのも 気持ちがいいのよ。ちょっとマゾっけがあるのかしらね」
 藤村は肩をすくめた。
「マリよ」おかまはグラスを軽く持ち上げた。「あなたは?」
「藤村」
 マリはテーブルに置いたままの藤村のグラスに自分のグラスを合わせ、残っていたカクテルを飲み干した。
「きっとあたし達いい友達になれるわ。そう思わない?」
 おかまと不能者。確かにいい組み合わせかもしれなかった。マリがグラスを置いたとき、その肩越しに、 店のドアが開くのが見えた。入ってきたのは涼子だった。彼女はすぐに藤村の姿を見つけ、小さく手を上げた。
「連れが来たようだ。悪いが席を空けてもらえないか」
 マリは藤村の視線を追って涼子に目をやった。藤村の方へ向き直ったとき、その目は意地悪く細められていた。
「そういうことなのね。まあ、うまくおやりなさいな」
 席を立つと、細身のパンツに収まった小振りな尻を激しく振って、マリは店の奥へと消えた。
 涼子はその後ろ姿を目で追いながら、藤村の前に腰を下ろした。
「いろんな友達がいるのね」


 
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