アズアドッグ
31
「今度機会があったら紹介するよ」
口元に笑みを浮かべ、遠慮しとくわ、と涼子は言った。彼女はテーブルにバッグを置き、手を入れた。
「ようやく仕事が見つかったのよ」取り出した角の丸い名刺の裏に、ボールペンで数字を書き足す。「三十を過ぎるとなかなか拾ってくれるところがないものね。これ、携帯の番号よ」
藤村は名刺を受け取った。青い字で生命保険会社の名前が刷ってあった。彼はそれを胸ポケットに収め、
涼子の顔を見た。
「三十になったのか」
「今年で三十二よ」彼女はおどけて言った。「自分がそんな歳になるなんて思わなかったわ」
そうだなと答え、涼子と出会ってからどのくらい経ったのかを藤村は考えた。
涼子も同じ様なことを考えているようだった。藤村はグラスを引き寄せ、出来るだけさりげない調子で
言った。
「辰野に会ったよ」
涼子の顔から表情が消えた。しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「会いに行ったの?」
「いや、偶然会っただけだ」
曲がムーンライトセレナーデからボディアンドソウルに代わった。バーテン達は一晩中ビッグバンドを
かけ通すつもりらしかった。サックスが最初のフレーズを吹き終わるのを待ってから藤村は続けた。
「辰野は子供を引き取るつもりだと言っていた。心当たりはあるかい」
「子供を?」
戸惑いの表情が浮かんだ。
「そう、子供だ。親戚か知り合いにいないか? その可能性がある子供は」
そこに答えが書いてあるかのように、彼女はボトルのラベルをじっと見つめた。
「分からないわ。本当にそんなことを言っていたの?」
「そうだ。――ひょっとすると仕事で関わり合いになった子供なのかも知れない」
涼子は小さくため息をついた。
「それなら私には分からないわ。あの人は仕事のことなんか話すことなかったもの」
藤村はグラスを取り、口をつけた。温い液体が喉の奥を滑り落ちていった。
「少し問題のある子供だと言っていた。だから、君と別れたらしい」
テーブルの上に置いた華奢な手が組み合わされた。関節が白く浮き上がった。
「君に迷惑を掛けないためにね。――辰野らしいやり方だ」
涼子は無理に笑いを浮かべようとした。が、うまくいかなかった。
ストリングスが余韻を残して曲が終わった。彼女は手を解き、呟くように言った。
「ひょっとすると、お義兄さんの子供かも知れない」
「辰野のお兄さんかい?」
涼子は頷いた。
「お義兄さんは二年前に亡くなったの。心臓病だったわ。でも、子供は奥さんが育てているはず
だから、辰野が引き取るなんてことはないと思うけど」
「住所は分かるかい? 奥さんの」
「ええ、家に帰れば分かるわ。――でも、それを知ってどうするつもりなの」
藤村はしばらく考えてから口を開いた。
「辰野が関わっているクスリの件と、その子供のことは何か関係があるのかも知れない。少し調べてみる
つもりだ」
涼子は藤村の目を真っ直ぐ見つめた。
「無理をしなくていいのよ。辰野も分別のあるひとだから、おかしなことにはならないわ、きっと」
「分かっている」
涼子の黒目がちな瞳に、オレンジ色の照明が映り、揺れていた。不意に浮かび上がりかけた情景を頭
の隅に押し戻し、藤村は涼子から視線を逸らした。マリンブルーの石がついたピアスに手をやり
ながら、彼女はわざとおかしそうに言った。
「そういえば、お義兄さんの家族に会ったことがないのよ、私。変な話でしょ」
「何故?」
「以前はとても仲のいい兄弟だったらしいんだけど、お義兄さんの結婚に辰野が反対してから、こじれて
しまったらしいの。私達が結婚した方が早かったんだけど、結局、お義兄さんの結婚式にも、出席しな
かったし、それから会うこともなかったのよ」
「お義兄さんの葬式にも行かなかったのか」
「辰野がひとりで行ったわ。――そういえば、その夜は随分酔っぱらって帰ってきたのよ。
お義兄さんが生きている内に仲直りできなかったのが酷くこたえてたみたい」
藤村の知らない陽気な曲が流れ始めた。カウンターの回りに陣取っていた黒人のグループが、奇声を
上げ、手を打ち鳴らしながら、身体をスウィングさせ始めた。
「辰野が、お兄さんの結婚に反対した理由は何なんだ」
涼子は少し迷ってから口を開いた。
「お義姉さんは以前、たちの悪い男と付き合ってたと聞いたわ。随分ひどい暮らしをしてたらしいの。
――私が知っているのはそれだけよ」
藤村は頷いた。
「分かった。できるだけ早く連絡をくれないか、お義姉さんの住所を」
彼が携帯の番号を教えると、涼子は自分の電話に記憶させた。
「なんだか喉が乾いたわ」
「カウンターで何か飲んでくるといい」藤村は煙草を抜き取りながら言った。
「ただ、声を掛けてくる奴等は相手にしない方がいいだろう」
「そんな物好きはいないわよ」
彼女はバッグを持って立ち上がると、カウンターに向かった。彼女の後ろ姿を追っていると、バーテンが
手を上げて自分を呼ぶのが見えた。藤村が近づくと、バーテンはカウンター越しに受話器を差し出した。
春日井にしては早すぎる、それに教えたのは携帯の番号だった、そう思いながら彼は受話器を耳にあてた。
「藤村だ」
「もしもし、藤村さん。僕です。ボブです」
「ボブ……。もう大丈夫なのか」
「ええ、今日、退院しました」
「随分早いじゃないか。もっとかかりそうなことを言っていたぞ、春日井が」
「――すみませんでした。春日井さんに余計なことを言ったばっかりに、藤村さんに却って迷惑掛けたみ
たいで」
「それはいいんだ。だが、俺は言ったはずだぞ。ロンのことは放っておけと」
「それはできません。変なことに巻き込まれている友達を、知らないふりして見捨てることはできないです。
藤村さんが僕の立場でもそうでしょう?」
一瞬、辰野の顔が浮かび、消えた。ボブの声が明るく変わった。
「でも、僕がこんな目に遭ったおかげで、ロンも考えを変えたんです。明日、ロンも退院するんですけど、
少し落ち着いたら故郷に帰ると言ってくれました」
「そうか。よかったじゃないか。お前も殴られ損にならなかったわけだ」
「ええ、明日は退院祝いを兼ねてロンと浴びるほど飲むつもりです」
藤村は声を落とした。
「だが、林には気をつけるんだ。お前達を簡単に見逃すとは思えない」
「分かってます。――藤村さんも気をつけて下さい」
「ああ」
「じゃあ、また連絡します」
藤村は受話器をバーテンに返した。テーブルに戻り、ボブの退院を祝って一杯飲んだ。
ロンの変心を祝福してもう一杯を空けたとき、涼子が帰ってきた。彼女は立ったまま椅子の背もたれに手を掛
けた。
「ほんとに面白い店ね。私を口説こうとする人が三人もいるなんて」
「ここじゃ、それが挨拶代わりなのさ」
彼女は憎らしそうな表情をつくって、笑った。
「今日はこれで帰るわ。さっきの件はすぐに連絡します」
藤村は頷き、彼女の姿がドアから消えるまで、座ったまま見送った。喧噪の中、涼子が残していったカウ
ベルの音が微かに耳に届いた。
32