アズアドッグ
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涼子が帰るのを待っていたかのように、店の奥から須賀見が現れた。薄笑いを浮かべている。
「振られたみたいだな」
涼子の消えたドアを顎でしゃくった。
「盗み見とは趣味が悪いな」
「なに、声をかけるのを遠慮しただけさ。――誰なんだ? 彼女は」
「知り合いの奥さんだ。ちょっとやっかいなことがあってな」
須賀見は手に持っていたマティーニをテーブルに置き、腰を下ろした。
「離婚の相談ってところか」
「いや、もう離婚はしちまってる」
藤村の言葉に須賀見は肩をすくめた。
「何故、そんなやっかいごとに巻き込まれるんだろうな、あんたは。――ところで、練習はしてるのか」
ダーツを投げる身振りで訊く。
「いや、ここのところ、ばたばたしててな」
「まだ、例の空手野郎ともめているのか」
「そういうわけじゃないんだが」
須賀見の顔から笑みが消えた。
「悪いことは言わん。妙な奴等とのつき合いはやめるんだ。あんた、このままだと、ろくなことにならんぜ」
吸いさしの煙草が灰皿からころげ落ちた。藤村はそれを拾い、灰皿で押し消した。須賀見が続けた。
「あんたが変に気を回すと嫌なんで言わなかったんだが」人差し指でテーブルをいらだたしげに叩いた。
「俺も少しは顔の利く会社があるんだ。もしよかったらそこで……」
藤村は須賀見の言葉の途中で首を振った。
「しばらくはここにいるつもりだ」
「何故だ。何にそんなにこだわっている?」
藤村はパッケージから新しい煙草を抜き取り火を点けた。最初の一服を深く吸い込んでおいてから、
煙と一緒に答えを吐いた。
「かたをつけなくちゃならないことが幾つかある。それが終わるまではここにいる必要があるんだ」
「――いくら言っても無駄なようだな」須賀身は立ち上がった。「何か俺にできることがあったら言ってくれ。
少しは役に立てるかも知れん」
「すまない」
「遠慮するな。俺達はパートナーだぜ。あんたがいなけりゃ、俺もゲームに出場できない」須賀見は削げた頬に
再び笑みを取り戻し、店の奥を親指で示した。「少し投げてから帰るよ。じゃあな」
頭の上の電子音で目が覚めた。目覚ましを掛ける生活からは永らく遠ざかっている。音源は携帯電話だった。
「もしもし、起こしちゃったかしら」
壁の時計を見る。七時半だった。
「これから出勤なのよ。昨日の件、今から言うからメモしてくれる?」
藤村はパイプベッドを降りて、テーブルの上の新聞とボールペンを掴んだ。涼子が読み上げる住所を新聞の
余白に書き留めていく。ふと目に付いた新聞の日付は一週間も前のものだった。
「彼女の名前を聞いてなかったな」
「辰野里美よ」
「旧姓は?」
「旧姓? ごめんなさい分からないわ。それに、住所もお義兄さんがいた頃のものだから、今もそこにいる
のかどうか分からないわよ」
彼女は、電車に遅れそうと口早に言って電話を切った。藤村はメモを見ながら考えた。私鉄を乗り継いで
行けば、二時間ほどで着くだろう。そのまま洗面所へ行くと、髭を剃り、中途半端に伸びた髪をジェルで撫で
つけた。半年前にクリーニングに出したきり、吊るしっぱなしにしていたスーツを身につけると一人前の
勤め人に戻った気分になった。一旦締めたネクタイの結び目に、人差し指を突っ込んで緩めながら藤村は
部屋を後にした。
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