アズアドッグ
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真新しい駅舎に、清潔な商店街。絵に描いたような新興住宅地だった。藤村は駅前に立っている
住宅地図と、メモ書きの住所を見比べた。歩いていける距離のようだった。11月とは思えない陽気
で、わずかなうちにコートの下の身体は汗ばみ始めた。
その建物は一階がコンビニで、二階から五階までは住居用のようだった。辰野里美の部
屋番号は304。藤村はコンビニの横手を回って、階段を昇り始めた。部屋はすぐに見つかったが、
表札の名前は辰野ではなかった。チャイムを鳴らすと、すぐにインターホンから若い女の声が答えた。
「こちらに辰野里美さんはいらっしゃいませんか」
「いえ、うちは佐々木ですが……」
「――多分、以前ここに辰野というひとが住んでいたはずなんですが、何かご存知ない
でしょうか」
「いえ、私達が越してきたとき、ここは空き部屋でしたから」
「失礼ですが、いつからこちらにお住まいなんでしょう」
「三ヶ月前からです。……そう、もしその方のことをお知りになりたいんでしたら、青山さんにお訊
きになったらいかがかしら。ここの大家さんなんです」
「ありがとう。その青山さんの連絡先を教えてもらえますか」
女性はインターホンの向こうで小さく笑った。
「ごめんなさい。青山さんはこの上に住んでらっしゃるの。505号よ。おばあちゃんは大抵部屋に
いらっしゃるから、今から行っても大丈夫じゃないかしら」
藤村は礼を言ってドアを離れた。更に階段を昇り、505の前に立った。チャイムを三回鳴らした
後、ようやくインターホンの向こうでひとの気配がした。
「はい、どちらさまでしょう」
おっとりした老婆の声だった。藤村が用件を告げると老婆は言った。
「ドアは開いてますから、入ってきて下さるかしら」
確かに鍵はかかっていなかった。後ろ手にドアを閉めた藤村が玄関に立っていると、廊下の突き当たりのリ
ビングと思しきところから、上がってくるようにと誘う老婆の声がした。
リビングは広くはないが、小綺麗に片づけられていて、居心地がよさそうだった。部屋の真ん中に置か
れたテーブルの後ろに
座った老婆は、藤村を労うような笑みを浮かべ、自分の向かいに座るよう勧めた。テーブルに近づい
たときに初めて、老婆が座るのが車椅子であるのに藤村は気が付いた。
「辰野さんのことがお知りになりたいのね」
八十近いのだろうか、藤村は老婆の柔和な顔を見ながら答えた。
「そうです。辰野里美さんです」
表情は皺の中に埋もれていたが、それでも彼女がつらそうな顔をしたのが分かった。
「あんなかわいそうなことはないねえ。私は光一郎ちゃんの顔がまともに見れませんでしたよ」
「お父さんが亡くなったときのことですか」
彼女は首を振った。
「いいえ、お母さん、里美さんが亡くなったときですよ」
藤村は小さく光る老婆の目を見つめた。
「亡くなったんですか。里美さんは」
「あら、ご存知なかったの? 今年の初めだったから、もう十ヶ月以上になるわ」
藤村は無意識に上着から煙草のパッケージを引き出した。が、テーブルの上に灰皿がないのに気が付き、再び
ポケットに押し込んだ。
「お父さんをなくしてからまだいくらも経たないのに、お母さんまでなんて。こんなことがあってもい
いものかしら。どうお思いになります? ええと……」
「すみません。申し遅れました。藤村と言います」
老婆は満足げに頷いた。
「ねえ、藤村さん。どれだけ痛ましいお葬式だったか、あなた想像つくかしら」
ふいに老婆の目から涙が溢れ、皺に沿って流れ落ちていった。藤村は彼女が
ティッシュで鼻をかみ終わるのを待ってから訊ねた。
「彼女は何故亡くなったんですか」
「なんでも、肝炎だとかききました。詳しいことは私には分かりませんけど」
「で、その子は今どこに?」
「里美さんのお姉さんが引き取りましたよ」
心なしかそっけない返答だった。
「そのひとの連絡先は分かりますか」
「ええ、分かりますよ。……お会いになるつもり?」
藤村は頷いた。
「そう。止めるつもりはないけど、きっと、後悔すると思いますよ」老婆は車椅子を器用に反転させ、電
話台に向かった。住所録と思われるものを引っぱり出し、ページを繰りながら続けた。
「会って気分のいいひとじゃないのよ。――あったわ」
彼女はページを開いたままテーブルに戻り、藤村の前に差し出した。藤村は手帳を出して、老婆が指し
示した部分を書き写した。
「お葬式が終わって出棺の前のことよ」老婆はきつい目つきでテーブルの上の造花を見つめた。「光一郎
ちゃんがお母さんの棺から離れなかったの。そのとき、あのひとはどうしたと思う? ひっぱたいたのよ、
あの子の頬を。信じられるかしら。いいえ、きっとその場で見ていたひと以外には想像できないでしょうね
そんな光景は」
想像できる、それも簡単に。藤村は思った。そんな女は今時珍しくはない。だが、口に出しては言わな
かった。
「ねえ、私、本気で考えたのよ。光一郎ちゃんを引き取ろうかって。……でも、この身体じゃあねえ」
彼女は右手で、車椅子を優しく叩いた。
「失礼ですが、おひとりでお住まいなんですか?」
藤村の問に彼女は首を横に振った。
「いいえ、連れ合いがおりますのよ。今は、散歩にいっておりますけど」
「そうですか。それは何よりですね」
老婆はこくりと頷いた。
「辰野さんの家のことを考えると、自分はなんて幸せなんだろうと思いますよ」
藤村は相槌をうってから立ち上がった。
「今から、行くの? 光一郎ちゃんのところへ?」
「そのつもりです」
老婆は少し迷ってから口を開いた。
「もし、光一郎ちゃんの様子が分かったら、私にも教えてくれないかしら」
「いいですよ。もちろん。――では、これで」
藤村はリビングを出る前に、ふと気になって老婆を振り返った。
「ドアの鍵は閉めておいた方がいいですよ。不用心だ」
彼女は哀しげに頭を振った。
「この家には取られて困るものなど何もないのよ」
藤村は軽口を叩こうとしてやめた。彼女の表情があまりに真剣に見えたからだった。彼女も自分で
そう思いこもうとしているほど、幸せなのではないのかも知れなかった。
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