アズアドッグ

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 里美の姉は、清美という名前だった。旧い住宅街の中に、今にも傾きそうな町工場が点在する町。 そこに清美は住んでいた。これだけ込み入った町で彼女の家を探し出すには一苦労しそうだった。
 土砂を積んだトラックが猛スピードで走り抜けていった。その道の向こうに、昔は赤い 色をしていたと思われるのれんが揺れていた。時計は一時を回っている。藤村は道路を横切り、のれんを くぐった。
 そのラーメン屋に他の客はいなかった。藤村は脂でべとつくカウンターの前に腰を下ろし、壁のメニューに 目をやった。すり切れた黒いセーターを着た親父がカウンターの中から藤村の顔を窺い見た。五十前後だろうか。
「ラーメン」
 親父は藤村の言葉に頷き、麺をゆで始めた。元の色が想像付かないほど褪せたカラーボックスの上に 置かれたテレビでは、見覚えのない役者達が使い古されたストーリーを演じていた。
「くだらねえなあ」親父がふいに言った。「くだらねえけど、最後は全てうまくいくのが分かってるから いいんだよな」
 ドラマのことを言っているようだった。藤村は煙草を一本抜き出しながら気のない返事をした。親父は 腕組みをしたまま続けた。
「俺っちの人生じゃこうはいかねえ。くだらねえ上に、最後までうまくねえ。全く、どうしようも ねえぜ」
 藤村は最初の一服を味わってから言った。
「この店は自分の店なんだろ。悪くないじゃないか」
 親父は苦々しげに笑った。
「今月いっぱいで閉めるのさ。実を言うともうこの店は人手に渡ってるんだ」
 彼はスープを張った器の中にゆで上がった麺を滑り込ませた。タッパーからチャーシューをつまみ出し 麺の上に並べていく。目を瞑っていてもできそうなほど、慣れた手つきだった。
 藤村が食べる間、親父は立ったまま壁に凭れ、テレビに見入っていた。箸を置いて煙草を手にしたとき、 ちょうどドラマも終わり、コマーシャルが流れ始めた。親父があくびをしながら言った。
「悪くない味だろう? だが、こんなとこで店をやってちゃだめなんだ。二十年やってきてようやくそれが 分かったよ」
「やりにくい町なのかい? ここは」
 親父は肩をすくめた。
「これでも、昔は悪くなかったんだ。それが安っぽいアパートが建って、余所からひとが入ってくるように なってからおかしくなっちまった。薄汚いのは昔からだ。だが、前は少なくとも活気があった。今じゃただ薄汚 いだけだ」
 藤村は自分の吐いた煙に目を細めた。その一本を吸い終わるまで、ふたりとも口を開かなかった。藤村は煙草を アルミの灰皿で押し消し、五百円玉をカウンターに置いて立ち上がった。
「ハイツ高科ってのはどこか分かるかい?」
「表に出て右に行って、最初の信号を右へ曲がるんだ。その道の突き当たりのT字路を左の路地に入っていけば すぐに分かる」
「ありがとう。――うまかったよ」
 親父は照れたような表情を浮かべ、鼻でふんと笑った。

 生ものが腐ったような臭いのする小川を渡った先に、目当ての建物はあった。築三十年は経っている二階建て のアパートだった。藤村は洋菓子屋で買ったばかりのケーキの箱を片手に、外階段を上り始めた。足を下ろす度 にさび付いた鉄板が嫌な音をたてた。202と書かれたドアには、表札は掲げられて おらず、チャイムもついていなかった。白い化粧板が剥がれ、下からベニヤが覗いているドアを藤村は叩いた。間を あけて二度叩き、三度目の拳を振り上げたときに、隣の部屋のドアが開いた。
「そんなに何度も叩くもんじゃねえぜ。大邸宅じゃないんだ。一度叩けば充分だ。――そこのババアなら留守 だ」
 油の染みがついた作業服を着た男だった。二十代のようにも三十代のようにもみえた。藤村は男に詫びて から訊ねた。
「いつ頃帰ってくるか見当つきませんか」
「さあな、部屋にいるときはわめき散らしているからいやでも分かるし、出ていっちまえば静かになるんで 分かるんだが、いつ帰ってくるかとなるとお手上げさ」
 男は手に持った小銭をチャラチャラいわせながら藤村を値踏みするように眺めた。視線がケーキの箱の上で 止まった。
「あんた、あのババアの知り合いかい?」
 藤村はあやふやに頷いた。男は唇を舌で湿してから口を開いた。
「そいつはちょうどいいや。あんた、あいつによく言ってくれよ。少し静かにしろってよ」
「そんなに騒がしいんですか」
 男は鼻を鳴らした。
「言っただろ。部屋にいる間はわめき通しさ。ガキに当たりちらしやがって。ようやくババアが出ていった と思ったら、今度はいつまでたってもガキが陰気くさく泣きやがる。――見ての通りの安普請、隣の音 は筒抜けさ」
「子供にはそんなにひどく当たってるんですか」
「いつもお決まりのパターンさ。最初は怒鳴り散らし、次は平手で叩く音がする。終いにはごつごつと鈍い 音が聞こえてくる」
「殴ってるんですか、子供を?」
 男は頷いた。
「ああ、そうさ。あのガキはたまに夜中に、ここでこうして川を見下ろしてることがあるんだ」男は身体を 屈めて、手すりの格子に顔をくっつけるようにした。「じっと見てるんだよ。俺に気が付くと慌てて部屋に 戻っちまうんだが、そのときちらっと見た様子じゃあひどいもんさ。顔にまであざをつくってるんだぜ」
 男はふと黙り込むと、にやりと笑った。
「待てよ。あんたひょっとしてあれかい。子供の虐待とかを取り締まるひとかい。……ちょっと、まずいこと 言っちゃったかなあ」
 言葉の割には何も気にしていないようだった。
「まっ、ババアも多分買い物に行った だけだろうから、ちょっとしたら帰って来るんじゃねえの。どこかで時間を潰してきなよ」
 男は言い置いて、ふらふらと階段の方へ歩いていった。
 男の話を信じれば、今もこのドアの向こうでは、外の気配に怯えながら光一郎が息を殺しているのだろう。 藤村はドアをこじ開け、 部屋に押し入りたい衝動を抑えた。パッケージから煙草を抜き取り、火を点ける。ペットボトル、自転車、 猫の死骸。もう 一度目をやった川には、思いつく限りのものが捨てられていた。暗闇の中、少年はどんな気持ちでこの川を 見下ろしてい たのだろう。藤村は考えながら、ゆっくりとドアの前を離れた。


 
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