アズアドッグ
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営業中という札が吊り下げてあっても、にわかには営業していることが信じられないほど鄙びた
喫茶店で一時間を過ごした。店番の老婆は、カウンターの向こうで居眠りを続けている。
すっかり冷え切ってしまった
コーヒーを前に、藤村は雑誌のページを繰り続けた。だが、目は活字を追っておらず、頭の中
で繰り返されるさっきの男の言葉に、じっと耳を傾け続けているだけだった。
三時になって藤村は店を出た。ハイツ高科の階段を上り、再び清美の部屋の前に立った。
耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。藤村はドアを叩いた。荒々しい足音が近づいてきて、ドアが
引き開けられた。
三十四、五の女の顔がドアの隙間から覗いた。頬がこけ、皮膚はくすんでいた。
女は藤村の顔から足元まで目を這わせてから、再び顔に視線を戻した。
「誰?」
藤村は会釈をしてから言った。
「樋塚さん……、樋塚清美さんでしょうか」
女のはれぼったいまぶたが警戒するように細められた。
「だったら、何よ」
「私は、福永といいます。辰野さんご夫婦に随分お世話になったものなんですが……」
女の頬が強張った。それには気付かない素振りで彼は続けた。
「お二人とも亡くなられたということを先日知りまして、多分
こちらで仏壇を引き取ってらっしゃるだろうとうかがいましたので、ご迷惑かとは思いましたが、寄らせ
ていただきました」
「そんなもの、置いてないよ」
女がドアを閉めかけるのを、さりげなく肩で押し止めて、藤村は言った。
「それではせめて、辰野さんご夫婦が亡くなったときのご様子だけでも教えて頂けませんか。
なんせ、辰野さんには私の事業が傾いたときに随分お金を貸して頂いてるんです。
このままでは気持ちがおさまりません」
ドアを押す女の力が弱まった。金というキーワードが彼女の鍵穴にぴったりはまったの
が分かった。
「入りなよ」
彼女はドアを開けて、後ろに身体を引いた。藤村は部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。部屋は
腐臭に満ちていた。玄関のすぐ側に設えられた台所の流しには洗っていない食器が乱雑に積み上げ
られている。足元に目を落とすと、銀色のヒールや真っ赤なブーツが並べられた端に、泥まみれの子供靴
が放ってあった。その布地に描かれた漫画のキャラクターの顔には青かびが生えていた。
「早く上がってきなよ。もう少ししたら店にでなきゃなんないんだ」
床は油や得体の知れないもので粘ついていた。藤村は清美の後について、襖の奥の六畳間に入った。
そこには、畳が見えないほど衣類、雑誌、そしておびただしいゴミが散乱していた。中央には
布団を掛けてないこたつが置いてあった。彼女は服を足で押しのけると、こたつの前に
座るよう、藤村に促した。そして、自分もその向かいに座った。彼女は藤村が置いたケーキの箱を、鼻で
笑ってこたつ台の端に押しのけた。
「で、あんた、何が知りたいのよ」
藤村は軽く咳払いをした。
「辰野さんが二年前、奥さんが十ヶ月ほど前に亡くなったと聞いたんですが、一体どんなご病気
だったんですか」
「旦那は心臓がどうにかなって、里美は肝炎よ」
「そうですか。それは大変でしたね。あなたもさぞかしつらい思いをされたでしょう。仲のいい
ご姉妹だとうかがっておりましたから」
清美は甲高い声で笑い、すぐに怒りを帯びた目で藤村を睨み付けた。
「里美が言ったの? そんなこと。お笑いだね」彼女は口の端を歪ませながら言った。「確かにガキ
の頃は仲が良かったよ。一緒に、シンナー食ったりしてた頃はね。だけどね、あの男に会って以来、
里美は変わっちまったよ。すっかりいい子になって、母親みたいな口調であたしに説教たれるんだ。
一体、何様のつもりだってんだよ」
「それでは、しばらく会ってらっしゃらなかったんですか? 妹さんと」
「ああ、あの子が結婚してから、入院してここに電話かけてくるまでは、一回も会ってないよ」
「それでも、里美さんの最後は看取られたんでしょう」
「まあね。あの子には他に身寄りがないからさ。しょうがないだろ」
「では、そのときに息子さんのことも頼まれた訳ですね」
清美はどこからともなく取り出した煙草をくわえ火を点けた。
「だったら、何よ」
「いえ、よく引き取られる決心をされたものだと感心しましてね。おひとり暮らしのようですのに。
何かと大変でしょう?」
「しょうがないさ。他に身寄りがいないっていっただろ」
藤村は少し考える素振りをしてから言った。
「確か、辰野さんには弟さんがいたはずですよ。そのひとにも相談してみたんですか?」
清美は藤村の顔に目を据えたまま、煙草をふかした。
「いや、あっちの兄弟も仲が悪かったらしいからね。里美が死んだときにも声を掛けなかったよ」
「そうなんですか。……それでは、竜野さんの息子さんは今、ここに?」
清美は一瞬、自分の後ろの襖に気をやった。
「ああ、いるんだけど今は風邪をひいててね。寝込んでるんだ」
「寝顔だけでも見せてもらえませんか」
清美は煙草の煙を藤村に吹きかけた。
「つい、さっき寝たとこなんだ。起こして欲しくないね」
「そうですか。では、しょうがないですね。また、出直すことにしましょう」
立ち上がりかけた藤村に、清美は少し慌てた口調で言った。
「あんた、さっき言ってた辰野に借りていた金っていうのはどうしたんだい」
藤村はゆっくりと首を振った。
「あのお金なら借りた翌年に返しましたよ。――当てにしてたんですか」藤村は声を落として
続けた。「里美さんの遺産で、金には不自由していないんじゃないのか」
清美は荒く息を吐いた。細身な割に大きな胸がセーターの下で波打った。
「ふざけたこと言うじゃないか」彼女は立ち上がり顔を激しく歪ませた。「あんた、何者だい? ひょっとして
あいつに頼まれて来たのかい? そうなんだろ」
藤村は黙ってきびすを返すと、ドアに向かった。清美が彼の背中に言葉を投げつけた。
「二度と来るな。ふざけるんじゃないよ」
藤村は靴を履くと、清美を振り返った。
「俺もあんたの顔は見たくないが、近々また顔を合わすことになる。そのときは、今日のようにはいかない。
覚えておくんだな」
清美は畳の上に唾を吐いた。藤村がドアを閉めてからも、清美の甲高い呪いの言葉は続いていた。
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