アズアドッグ
36
藤村は喫茶店へ舞い戻った。窓際の席に座り、表の通りに目をやる。清美はもうすぐ店に出ると言っていた。
彼女が電車を使うのであれば、駅へと向かうこの道を通るはずだった。店の老婆はコーヒーを運んできた後、
定位置の椅子に戻ると、どこかで聞いたことのある古い歌を小さく口ずさみ始めた。同じフレーズを
何度も繰り返す内に、段々声は小さくなり、やがて微かないびきが取って代わった。
清美が歩いてくるのが見えた。白いワンピースの上に、フェイクファーのコートを羽織っている。
そうしていると一人前の夜の女に見えた。夢中になる男がいても不思議ではなかった。彼女は藤村には
気付かず、ヒールをアスファルトに打ち付けながら通り過ぎていった。彼は更に三十分待ってから
席を立った。老婆を起こしてコーヒー代を渡した。
藤村がドアを叩くと、目を赤くした男が顔を覗かせた。
「なんだ、あんた、もう帰ったんじゃなかったのかい」男は酒臭い息を吐いた。「だいぶ激し
くやりあってたじゃないか。壁越しに聞こえてたぜ」
藤村は口を曲げ、笑いを浮かべた。
「頼みがあるんです」藤村は財布から万札を抜き取ると、小さく折り畳んだ。
「しばらくの間、この部屋を貸してくれませんか」
男は藤村の手元に視線を貼り付けたまま答えた。
「かまわねえけどよ。一体、何をするつもりだ」
藤村は紙片を男の目の前にかざしておいてから、彼の作業着の胸ポケットに押し込んだ。
「ちょっと疲れたんでね、一眠りさせてもらうだけです。一時間あればいい。その間、酒でも飲んで来て
くれませんか」
男は頷くと、そのまま靴をはき、藤村の脇をすり抜けた。藤村はその丸まった背中に声を掛けた。
「隣の部屋に男が訊ねて来ることはないんですか」
男は頭だけ回して応えた。
「ああ、一度見かけたが、結構羽振りの良さそうな奴だったぜ。あのおばはんには似合わねえ
ぐらいのな」
男は片手を振ると、階段の方へふらつきながら歩いていった。
藤村は部屋に入り、鍵を閉めた。汚れているのは清美の部屋と変わらなかったが、彼女のところのよう
な荒んだ雰囲気はなかった。間取りも彼女の部屋と一緒だった。彼は奥の六畳間から、その
隣の四畳半へと入った。まともな家財はなにもなかった。見も知らない男に、簡単に部屋を貸すだけの
ことはあった。彼はサッシの鍵を外し、窓を開いて顔を出した。隣の部屋の窓は、すぐそこにあった。
表はまだ明るかったが、外壁に迫るように植えられている木のおかげで、誰にも見られる心配はなかった。
彼は身体を乗り出し、隣の窓枠に手を掛けた。清美の部屋の窓に鍵が掛かっていないのは、さっき話をしている
最中に確認していた。部屋を出る前に、わざわざ戸締まりをして出ていくような女には思えない。窓枠を
押すと、案の定、窓はあっさりレールの上を滑っていった。彼は窓枠に足を掛けて隣の窓に飛び移った。
六畳間には誰もいなかった。彼の手土産の菓子箱は壁際で潰れ、畳の上にクリームがこぼれ落ちていた。
彼は隣の部屋の襖に手を掛けて、ゆっくりと開いた。
その部屋は暗かった。開いた襖から差し込む光に、ぼんやりと部屋の様子が浮かび上がった。部屋の隅に
身体を縮めた男の子が座り込んでいる。それが身を守る唯一の道具であるかのように、毛布を
力一杯抱きしめていた。
「怖がることはないんだ。私はお父さんとお母さんの友達だよ」
言葉は男の子の様子になんの変化も与えなかった。男の子の喉がひゅうと嫌な音を立てた。
「青木のお婆さんとも友達だ。ほら、車椅子に乗っているお婆ちゃんだ。知ってるだろ?」
男の子の目の中で何かが揺れた。彼の視線がゆっくりと藤村の顔の上に焦点を結んでいった。
藤村は少年の顔から怯えた色が消えるのを待って、部屋に足を踏み入れた。窓に近寄り、カーテンを
めくると、雨戸の裏側が見えた。彼はカーテンを元に戻すと、部屋の蛍光灯をつけた。少年は光から逃れる
ように顔を膝の間に伏せた。あらためて見渡した部屋は、六畳間以上に酷い状態だった。インスタント麺の
カップの山、菓子パンの空袋、汚物を拭いたままのタオル、そして敷きっ放しの布団。その布団の端はかびが
青く縁取っていた。藤村は少年に視線を戻した。青いパジャマの袖から覗く手の甲は白く、引っ掻き傷の後に
できた瘡蓋が黒く長く残っていた。藤村は少年の側にしゃがんだ。
「ずっとこの部屋にいるのかい」
少年は立て膝の向こうから目だけを覗かせると、小さく頷いた。五歳ぐらいだろうか、幼稚園で見かける
子供達と同じぐらいの年頃と思えた。
「外に出してもらえないのかい。――もし、外に出たらお仕置きをするって言われてるんだね」
もう一度頷く。
「ここに来てから、あのおばさんの他には誰かと会ったかい」
少年はあいまいに頷いた。
「男のひとだね。それは君のお父さんの友達かな」
首を強く横に振った。
「お父さんの弟――君のおじちゃんもここに来たんじゃないかな?」
少年は少し考えてから頷いた。藤村は少年を驚かさないようにゆっくりと、その頭に手を乗せた。
「分かった。ありがとう。……もう少し、辛抱するんだぞ。もう少しすれば、ここを出ていける」
藤村は立ち上がり、蛍光灯の紐に手をかけた。
「いっちゃうの」
少年が、不意に顔を上げ、藤村を仰ぎ見た。その唇は腫れ上がり、頬は黒ずんだあざに染まっていた。
「心配しなくていい。誰かがきっと迎えにくる」
「おじさんじゃないの? おじさんが迎えにきてくれるんじゃないの」
藤村は少年の目を見つめ返した。
「分かった。おじさんが迎えにくるよ。約束だ」
毛布を掴んでいた指先の力が緩むのがわかった。藤村は少年に頷いてみせてから、蛍光灯を切った。そして、
そのまま振り向かずに部屋を出た。
しばらく六畳間の窓枠に手をついたまま、藤村は動かなかった。少年の顔を見たときから震えだした手が
元に戻るまでには、まだしばらく時間がかかりそうだった。
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