アズアドッグ

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 アズアドッグへ着いたときには七時を回っていた。店には既に酒場特有の陽気な 雰囲気が漂い始めている。閉店前の淀んだ空気も嫌いではなかったが、まだいくらか 昼間の明るさが残るこの時間帯が藤村は好きだった。
 カウンターでボトルとグラスを受け取り、いつもの席に着いたとき、スーツの中で 携帯が鳴った。
「俺だ。春日井だ」
 藤村は左手に携帯を持ち替え、右手で煙草を抜き出しくわえた。
「おい、聞いてるのか」
「ああ、聞いてる」
 受話器の向こうで舌打ちが響いた。
「例の件、分かったぜ。今、聞きたいか」
「ああ、そうしてくれ」
 署からではないのだろう。特に声をひそめることもなく春日井は喋り始めた。
「宮田の女の名前は、カノウコユキ。加える、納める、小さい、雪。加納小雪、だ」
 藤村は煙草に火を点け、煙を肺の奥に送り込んだ。加納小雪。頭の中でその文字を なぞってみる。
「いいか、これで貸しがひとつだぜ」
「覚えておくよ」
 春日井は電話を切らないまましばらく黙り込み、やがてさりげない口調で言った。
「言っておくが、彼女には会えないぜ」
「ああ、分かっている」
 不満げに鼻を鳴らす音がした。
「おかしな話だな。彼女の名前は知らないのに、彼女が死んだことは知っているのか」
 藤村は答えずに、紫煙を送話口に吹きかけた。
「まあいいさ。じゃあ、これはどうだ。――宮田にはその女との間に子供がいて、その子も 死んでいる。ついでに言うと、そのとき一緒に暮らしていた男もだ。――こ れもご存知かな」
 思わず受話器を持ち直した。
「詳しく聞かせてくれないか」
「いいだろう。――当時、加納 小雪は松永栄史郎という男と一緒に住んでいた。松永という男は宮田の舎弟だったが、宮田が パクられた後、すぐに組を抜けている。小雪と暮らし始めるまでにどういういきさつがあった のか知らんが、小雪とその息子を連れて北陸の方に引っ込んで、真面目に働いていたようだ。 だが、ある日住んでいたアパートが燃えて、三人とも焼死した。深夜の火事だったんで、他の 住人も多く亡くなったようだ。出火元は松永の家で、不審火の疑いもあったが、結局、事故扱い になっている」春日井は一呼吸置いてから続けた。「火事が起きたのは宮田が出所してから半月 後のことだ」
 煙草の火が指先を焦がしかけていた。藤村は煙草を灰皿で押し消した。
「宮田も調べられたのか」
「ああ、だが、おかしな点はなかったらしい」
「――分かった。助かったよ」
「ふん、おかげで俺も宮田をもっと叩いてみる気になったぜ。もちろん、あんたにも協力して もらうつもりだ」
 グラスにバーボンを注ぎ、藤村は今日初めての酒を口にした。
「春日井さん、あんた一課だろ。よく暴対の人間とも話しておいた方がいいぜ。スタンドプレーで ボロを出さないようにな」
「余計なお世話だ」
 電話が切れた。藤村は携帯を内ポケットにしまい、新しい煙草をくわえた。ライターで火を 点けながら、金森のマンションで見た加納の眼差しを思い浮かべた。そして、その瞳の中に宿ってい た強い光の意味を考えた。また携帯が鳴った。
「藤村さん、すぐに来てくれませんか」
 押し殺した声がそう言った。ボブだった。
「どうした。どこにいるんだ」
 荒い息づかいだけが回線を伝わってくる。藤村は声を厳しくした。
「ボブ、どこなんだ」
 ボブは何度もつかえながら、住所とアパートの名前を言った。
「そこになにがあるんだ」
 奥歯を噛みしめたまま話しているような声でボブが言った。
「ロンのアパートです」

 
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