アズアドッグ
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アズアドッグのテーブル席に収まると、ボブはロックを三杯、立て続けに空けた。
彼はしばらく空のグラスを見つめた後、独り言を言うように話し始めた。
「ちょうど、こんな感じの店でした。僕とロンが知り合ったのも」グラスを傾けてバーボンで口を湿
す。「僕がひとりで飲んでいると、ロンが女の子を連れてやってきたんです。しばら
くして彼がトイレに立つと、その子が僕に話しかけてきました。ロンは気のいい奴なん
ですが、話し下手で、女の子を楽しませるのは得意じゃなかった。きっと、その子も退屈し
てたんだと思います。彼女と軽口を叩いていると、いきなり襟首を捕まれました。ロン
は真っ赤になって怒ってて、いくら弁解しても無駄でした。結局、店の裏手で殴り合いました。
でも、ふたりともかなり酒を飲んでたので、ちょっと腕を振り回しただけですぐふらふらです。お互い
に馬鹿らしくなって店
に引き上げると、ロンの彼女はとっくに消えていました。しょうがなく彼
と飲み交わす内に、同じ州の生まれだと分かって仲良くなりました。
もう、三年前のことです」
紫煙が濃く漂う中、ブライアン・フェリーがけだるく歌っていた。バーテン達はもう
ビッグバンドには飽きてしまったのだろう。
藤村は煙草をふかしながら
ボブの話を聞き続けた。少なくとも話し続けている間は、今日見てし
まったことを思い出さずに済む。在職中に関わった事件の被害者の身内にも、話すのを止め
ればそのまま死んでしまうかのように、ひたすら言葉を並べ続ける者がいた。彼等には黙って
話を聞いてやる人間だけが必要なのだ。
不意にボブの言葉が途切れた。藤村は手元のグラスから目を上げて彼の顔を見た。ボブの見開かれた目は店の
入り口に注がれていた。そこには、薄ら笑いを浮かべた林が、スラックスのポケットに手を突っ込んで立っていた。
彼は顔に笑みを貼り付けたまま、客の間を縫いながら藤村
達のテーブルに近づいてきた。
「やあ、もう退院してたのか」
藤村の横に立ち、ボブに言った。濃紺のスーツに包んだ身体がゆらゆらと揺れている。
その動きは蟷螂が獲
物を捉える前の動きを思わせた。ボブが林の顔に目を据え付けて、吐き出すように英語で何かを言った。
林は一瞬頬を強張らせたが、すぐに薄ら笑いを取り戻して、英語で答えた。意外なほど滑らかな
発音だった。ボブはグラスを掴んだままきつく唇を結んだ。林が藤村に目を転じ、肩をすくめて見せ
た。
「相変わらず、威勢のいい兄ちゃんだな。――藤村さん、今日はあんたに用があるんだ。ついてきてくれ」
藤村は煙を天井に噴き上げた。
「有り難くないご招待だな。今晩はこいつとゆっくり飲んでいたいんだ」
林は目を細めると、困ったとでも言いたげな表情をつくり、首を振った。
「宮田さんが残念がるぜ。せっかく面白い出し物を用意したっていうのに」ロレックスの文字盤をわざとらしく
覗き込む。「ほら、あまり待たせると宮田さんの機嫌が悪くなる。立てよ」
「宮田の他に誰か居るのか」
「ああ、金村と奴が使っている若いのが来ている」
藤村はグラスを置いて椅子を立った。煙草のパッケージを内ポケットに突っ込みながらボブに言った。
「悪いが、行って来る。ゆっくり飲んでいってくれ」
ボブは林から目を逸らさずに小さく頷いた。林もボブに冷たい一瞥を返すと、舌打ちを残し、きびすを返した。
藤村はその後をゆっくりと追った。
「何処に行くんだ」
動き始めたシーマの中で藤村が訊いた。運転席には趣味の悪い紫色のスーツを着た男、助手席には
シートの背当てからはみ出してしまうほど肩幅の広い男が座っていた。
「あんたでも、不安になることがあるんだな。心配するな、行き先は胡蝶蘭さ」
「何を始めようっていうんだ、宮田は」
「さあな」林は煙草に火を点けうまそうにふかした。「着いてからのお楽しみにしとこうや」
藤村も煙草を取り出しくわえた。
「さっき、ボブは何と言ったんだ」
林は含み笑いをしながら答えた。
「簡単に訳せば、ぶっ殺してやる、ってとこか。いつでも相手になるぜと答えてやったよ」
藤村は窓の外のイルミネーションに目をやり、さりげなく言った。
「ロンも退院したらしいじゃないか。もう、彼のことは放っておいてやったらどうだ。どうせ、
たいした仕事をやらせているわけでもないだろうに」
林の視線が自分の横顔にまとわりつくのを藤村は感じた。やがて、林はひとことひとこと
区切るように言った。
「あんた、少しは自分の心配をしたほうがいいぜ」
それからは、助手席の男が噛むガムの音がするだけで誰も喋ろうとしなかった。やがて、
車は胡蝶蘭のドアの前に横付けされ、林と藤村だけが降りた。
胡蝶蘭は結構な賑わいをみせていた。林が店に入ると他の女の子を制して、みゆきが自分で出迎えた。
今晩は薄いクリーム色のチャイナドレスに、蘭の花を象った髪飾りを身につけていた。
林は口の端に笑みを浮かべた。
「相変わらず見事な曲線だ。スリットがあと五センチ長ければ文句ねえ。――宮田さんはどこだ?」
「ありがとう。奥の部屋よ」
藤村は林に続いてみゆきの側を通り抜けたが、彼女は目を合わそうともしなかった。
林はスタッフオンリーと書かれた扉を開けて通路に出ると、その突き当たりにある部屋へと
真っ直ぐに歩いていった。分厚い扉を押し開けると広い空間が現れた。三方の壁際にはソファーが備え付けられ、
奥の壁の前には巨大なモニターやオーディオセット、そしてカラオケの機器が置かれていた。
部屋の中央にはカウンターバーが設えてあり、それは、立ったまま酒を飲んだり話をしたりする
のに都合のいいように、胸の少し下辺りの高さに作られていた。
部屋の中には三人の先客がいた。金森と加納はソファーに並んで座っていて、居心地が悪そうに
見えた。宮田はカウンターバーに肘をついて、グラスを弄んでいた。ソファーの二人とは対照的に今の状況を
楽しんでいるようだった。
「藤村さん、待ってましたよ」
宮田は藤村を招き寄せ、新しいグラスにスコッチを注いだ。藤村の後ろで、失礼しますと言い置
いて、林が足早に部屋を出ていった。
「このお二人は酒にも付き合ってくれないんで、困ってたんですよ。少し酒を飲んだ方が口も
滑らかになるだろうと思ってすすめるんですがね」
藤村がソファーに目をやると、加納は顔を背け、金村は困ったような笑みを返してきた。
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