アズアドッグ
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藤村はカウンターへ歩み寄り、宮田の斜め正面に立った。スコッチが注がれたグラスを手に取り、
わずかに口に含む。
バーボンに慣れた舌に、それは化学薬品のようにしか感じられなかった。藤村は液体を喉の奥に
流し込むと、グラスをカウンターに戻した。宮田が藤村の顔を見て、満足そうに頷いた。
「これでようやく幕が開けられる。さあ、始めましょうか」
手元に置いていたリモコンのスイッチを押すと、スピーカーから雑音が流れ始めた。
金森と加納が、怪訝な顔でスピーカーに目をやった。彼等も何が始まるのか聞かされていないのだろう。
――立派な会社に勤めてらっしゃるのに。
突然、低い男の声がスピーカーから聞こえた。
――何が言いたいんだ。
違う声が答えた。電話での会話を途中から録音したテープのようだった。
――具合が悪いでしょうということですよ。あなたが覚醒剤の常習者であるのが会社に
知れたなら。
――俺を脅すのか。
――いいえ、ただ、覚醒剤に使う金があるんだったら、少しこちらにも回して欲しいと思ってる
だけですよ。
――馬鹿な。……たとえあんたが会社に電話しても、誰も信じやしないさ。俺が覚醒剤をやってる
なんて。
――試してみますか。
しばらく、雑音だけが続いた。
――わかった。いくらほしいんだ。
――500万。高いと思うかもしれませんが、これ一回きりですから。私は何度も繰り返して請求
したりはしません。
――それにしても高い。高すぎる。
――あとはあなたの判断次第だ。
低い男の声が、ある都市銀行の支店名とササキカズヨシという名義の口座番号を告げた。
――三日間待ちましょう。それまでに振込がなければあなたの気が変わったと考えます。
――待てよ……。
――それともうひとつ。あなたが覚醒剤を買った先に、ねじ込んでいっても無駄ですよ。私はあそことは
何の関係もない人間です。むしろ、あなたにとって具合の悪いことになるだけです。彼等ともめれば、金
では済まない問題になりますよ。
――待てったら……。
受話器をフックに戻す音がした。しばらく雑音が続き、やがて、その雑音も途絶えた。
宮田はテープを止めると、金森、加納、藤村の順に顔を窺っていった。
「最近、売り上げが落ちてきているのは皆さん知ってますね」宮田はグラスについた水滴を、人差し指で愛お
しげに拭いながら言った。「あまりに様子がおかしいので調べてみたんですよ」
金森が落ち着きのない視線を、毛足の長い絨毯の上へ泳がせていた。額の汗がカクテルライトを受けて光
っている。加納は前屈みの姿勢で両手を組み、宮田の足元の辺りをじっと見つめていた。その顔には何の表情も
浮かんでいなかった。
「そうすると、おかしな噂が出てきましてね。うちの顧客リストが外に流れていて、それを元に誰かがお客に
ちょっかいをだしている、っていうんです」
宮田は藤村に肩をすくめてみせた。藤村は目を背け、パッケージから煙草を抜き出した。カウンターの上
を滑ってきたライターが、グラスにぶつかって止まった。手に取ったそれは二本の指に隠れる程のサイズだったが、
ずっしりと重かった。銀をたっぷりと使って
いるのだろう。藤村は微かにオイルの匂いがする火を使ってから、宮田の手元にライターを戻した。
「それが今のテープっていう訳か」
自分のメンソールをくわえながら、宮田が頷いた。
「で、今から犯人捜しか」
藤村の言葉には答えず、宮田は深く煙を吸い込んだ。そして、目を細めると、ソファーに座るふたりの
上に向けて紫煙を吐き出した。金森が手で煙を払いながら、慌てて立ち上がった。
「ちょっと待ってや、宮田はん。そりゃ、おかしいんと違いますか。あの顧客リストに近づけたのはわてら
だけとちゃいまっせ。わてらを疑うのは……」
宮田は首を振って、金森の言葉を遮った。
「それがそうでもないんですよ。実はこの前、顧客リストにちょっとした細工をしましてね。ダミーの
顧客データを入れておいたんですよ。名前や住所はそのままで、電話番号だけ変えて入力
したんです。その偽の番号に入ってきた電話が、先ほど聞いてもらったテープなんですよ」宮田は煙草を指に
挟んだままグラスを手に取り、スコッチを飲み干した。「そのダミーの顧客データというのが先日、
ここにいらっしゃる藤村さんに私が渡したフロッピーなんです」
金森が藤村の顔、宮田の顔と視線を移し、口を開きかけて、閉じた。頬の肉が精気無くだらりと垂れ下
がった。
「ですから、あのデータを外に流すことが出来たのは今ここにいる三人だけなんですよ」宮田が楽しげな
口調で続けた。「さあ、これで説明は十分でしょう。そろそろ私は口を噤んで、誰かの告白を待つことにしま
しょうか」
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