アズアドッグ

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 ミニクーパーの狭い運転席に身体をねじ込みながら金森が言った。
「みゆきちゃんとの話は何のことでっか?」
 既に助手席に収まっていた藤村は、金森が腰を下ろすのを待ってから答えた。
「彼女の姉さんの話さ。――宮田の女だったんだ」
 驚いたように眉を動かし、金森はイグニッションを回した。
「へえ。……そやけど、なんで藤村はんがそんなことを知ってはるんや」
 ウインドウを細目に開け、藤村は煙草に火を点けた。
「彼女は死んだ。その死には宮田が関わっていたかもしれない。少なくとも加納はそう 思っている。――彼は、みゆきの弟なんだ」
 金森は目を見開いた。
「加納がみゆきちゃんの? 知らんかった。ほんまでっか?」
「ああ、加納が弟だということはみゆきの口から聞いた。それで、彼のことがちょっと気に なって調べてみた。多分、彼は宮田が自分の姉を殺したと思っている。宮田の下で 働いているのも、いつか奴に復讐するためだろう。 今回のデータの件にしても、ちょっとした宮田への意趣返しのつもりだったのかもしれん」
「とんでもない話やな。ほんまに宮田はんが加納ちゃんの姉さんを殺したんでっかいな?」
「扱いは事故ということになっている。実際のところは分からない」
 クーパーが小刻みに車体を揺らしながら動き始めた。
「アズアドッグへやってくれ」
 藤村の言葉に金森は頷き、ハンドルを切った。
「データのこと、加納ちゃんの仕業やと知ってはったんやな」
「あんたには、宮田を裏切る度胸はないだろう。単純な消去法だ」
 金森の布袋腹が笑いで揺れた。
「きついこと言わはるわ。でも、確かにその通りですわ」ふと真顔に戻る。 「でも、藤村はん、あの拳銃に弾が入っていないのに、いつから気付いてはったんですか」
 細く吐き出した煙が、窓の外へ吸い出されていった。不意にトカレフの重みが手に蘇った。
「自分のいる部屋の中で、実弾の入った拳銃を他人に持たせるはずがない。あの宮田が」
 金森はあきれたとでもいうように肩をすくめた。
「なんや、それだけの理由でっか。まったく、びっくりさせられるわ、藤村はんには」
 窓の隙間から落とした煙草の灰は、すぐに 暗闇に飲み込まれていった。――確かに、銃のバランスから、弾倉が軽いことを感じてはいた。が、 引き金を引けたのは、やはり宮田という男を知っていたからこそだった。藤村は煙を肺深くまで 吸い込んだ。暗闇に煙草の先がひときわ赤く滲んだ。
「本当は加納にトカレフを持たせたかったはずだ、宮田は」
 金森は少し考えるように首を傾げた。
「そうか。――加納ちゃんが拳銃を握り、宮田はんに向ける。だが、引き金を引いても弾は出えへ ん。――そういう筋書きを宮田はんは書いてはった訳でんな。そうなれば、データの 件は自分がやったと加納ちゃんが言うたも同然や。実に、宮田はんらしいやりかたやな」
「ああ、そうやって、少しずつひとを追いつめていくのが奴の趣味なのさ」
 長いため息が金森の口から漏れた。
「まったく、えらいひとと関わり合いになったもんや、わても、藤村はんも」
 半分ほどになった煙草を灰皿でもみ消す。溢れかえった吸い殻の中から灰が舞い上がった。
「あんたはもう大阪に引き上げた方がいい。――あっちに身内はいるんだろ」
「女房と娘。女房いうても、元がつくんやけど」金森は珍しく自嘲気味に言い、ハンドルを 軽く叩いた。「この車も女房が好きな車なんや。自分でも似合わんのは分かってるんやけど、 気が付いたら中古車屋でこの車を選んどった。なんや、未練がましい話でっしゃろ」
 藤村はそれには答えずに、窓の外に目を逸らした。ガードレールの向こうに住宅街の明かりが 見えている。そこには藤村や金森が失った穏やかな暮らしがあった。きっかけさえあれば、それを取 り戻せるような気がするときもある。だが、それは幻に過ぎない。誰よりも自分が一番良 く分かっていた。
 それから金森はふっつりと黙り込み、結局アズアドッグに着くまで無言だった。何を考えているの か、その横顔からは分からなかった。
 彼に別れを告げ、藤村はアズアドッグの階段を上がっていった。鍵を開けて入った店には、煙草とアル コールの匂いが濃く残っていた。カウンターの後ろからボトルとグラスを持ち出し、ス ツールに座る。最初の一杯が胡蝶蘭の奥の部屋で飲んだスコッチの味を忘れさせてくれた。 二杯目がトカレフの引き金の感触を忘れさせてくれた。三杯目が、車の 中で、金森に切り出さなかった話のことを思い出させた。
 今日の決着で宮田が満足したと思うのは、大きな間違いだった。 加納は胡蝶蘭を出た時から、宮田の監視下に入っているはずだ。宮田達は加納が誰かとコンタクトを持つ のをじっと待っている。それを、金森に教えてやるのは簡単だった。が、結局 話さなかった。話さないことで、加納が危険に晒されるのは分かっている。だが、加納、辰野と繋がる その先に誰がいるのか、それを探るためには宮田の持つ組織的な力が必要だった。
 カウンターの隅に片づけられていた灰皿を引き寄せ、煙草に火を点けた。
 あるいは判断を間違ったのかもしれない。天井へ立ち昇る煙を見ながら、そんな気持ちが不意に大き く膨らんだ。結局、加納や辰野を宮田の元に差し出すことになるだけで、自分は手も足も出せない可能 性もあった。そうなれば、あの少年との約束も果たせないことになる。
 グラスに残っていたバーボンを空け、カウンターの下からダーツを掴み取る。
 久しぶりに向かった的へ、藤村は無心でダーツを投げた。ようやく狙いが定まり始めた とき、スツールの背に掛けたジャケットの中で、携帯が鳴り始めた。

 
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