アズアドッグ
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反射的に腕時計を見た。一時四十五分。
「よかった。何度もかけたのよ」
安堵と怒りがない交ぜになった声が流れてきた。涼子だった。
「ずっと、携帯の繋がらないところにいたんだ」
「今日、いえ、もう昨日になるのね、お店の方に行ったのよ。辰野のことがどうなったか気に
なって」
ダーツをカウンターに置き、スツールに腰を下ろす。表の道路をクラクションを鳴らしなが
らバイクの集団が走り抜けていった。
「辰野の甥っ子の居場所は分かった。辰野が引き取るつもりにしている子供は、多分あの子だ
と思う」
「どうしてそう思うの」
カーテンを閉め切った部屋の中で、身を縮めていた少年。顔立ちははっきり
とは思い出せないのに、怯えきった瞳の色だけが鮮明に蘇った。
「その子は今、あまりいい環境にいるとはいえない。辰野がそれを知っていれば、子供を自分
の手元に置きたいと思うだろう」
「母親と一緒に暮らして居るんじゃないの? その子は」
「いや、母親は病気で亡くなった。子供は母親の身内に引き取られている」
受話器の向こうで涼子が黙り込んだ。しばらくして小さな声が言った。
「ずいぶんひどい扱いを受けているの?」
藤村はダーツを取り上げ、バランスを確かめるようにして指先で弄んだ。
「ああ」
「それならどうして辰野はすぐに引き取らないのかしら。私とも別れて、もう誰に遠慮するこ
ともないのに」
「相手が子供を離さないのさ」
「どうして? その子をまともに育ててないんでしょ? だったら、さっさと辰野に引き渡し
たらいいじゃない」
「子供は取引の条件に使われている」
「取引?」
藤村はボトルのキャップを再び開けて、空になっていたグラスに中身を注いだ。
「辰野がクスリに関わっていた件、おそらくそれが取引の条件だ」
苛立ちを含んだため息が漏れてきた。
「一体どういうこと。さっぱり分からないわ」
「子供を引き取ったのは、その子の母親の姉なんだ。他に身寄りがなかったから子供の
ことを自分の姉に頼むしかなかったのさ。それなりの蓄えもあったようだから、遺産を渡す
のを条件に、子供を育ててもらう約束をしたんだろう」バーボンを一口含み、喉の奥に流し込んだ。
「だが、その女に
すれば、遺産を受け取った後では、子供は唯の邪魔者でしかない。ろくに面倒も見ずに、部
屋に閉じこめたままだ」
「だから訊いてるのよ。何故、そんな女から早く子供を引き離さないのよ」
「義務と権利は表裏一体だ。その女には子供を養育する義務があると同時に、
子供を側に置いておく権利もある。理由もなく子供を引き離す訳にはいかない」
「理由がない? 虐待は理由にならないっていうの?」
藤村は涼子に見える訳でもないのに、小さく首を振った。
「子供が虐待を受けているのを証明するのは難しい。下手に正式な手段で、虐待から子供を救
い出そうとすれば、逆に子供を危険な状況に追い込むこともある」
小さい舌打ちの音が応えた。藤村は続けた。
「辰野は子供のことを知って、是非引き取りたいと申し入れたはずだ。女にすれば渡りに船で
子供を辰野に押しつけてもよかったんだが、そうはしなかった。辰野の職業を利用することを
思いついたからだ。――子供は渡してもいいけど、少し仕事を手伝って欲しい。――そういう
訳だ」
「ひどい。ひどい女ね」
「いや、あの女に、そんなことを考える頭はない。多分、男の入れ知恵だろう」
「誰なの? その男って」
「分からない。――その男のおかげで危うくひとを殺す羽目になるところだったが」
「何のこと?」
「――冗談さ」
「つまらないことを言わないで。……で、どうしたらいいのかしら、私達」
「明日、もう一度その女を訪ねてみるつもりだ。男のことを聞き出す」
涼子が慌てて言った。
「手荒なことをしちゃ駄目よ。元刑事が事件を起こせば、マスコミにいいように書き立て
られるんだから」
「分かっている」
「本当に? 心配だわ。……そうだ、明日、私もついて行くわ。どう、いいでしょ」
「駄目だ。出来るだけ静かに事を運びたい。君と一緒じゃ、目立ちすぎる」
涼子は不満げに鼻を鳴らした。
「そう、しょうがないわね。でも、約束して。何か分かったらすぐ連絡をくれるって。今日
みたいに一晩中やきもきするのは嫌よ」
「分かった。約束する」
「ありがとう。じゃ、おやすみなさい」
通話を切った携帯をスーツのポケットに戻す。ダーツを手にしたが、もうそれを投げる気
はしなかった。
表で車がタイヤを軋ませて停まり、それに続いて荒い足音が階段を駆け昇ってきた。ドア
が押し開けられ、カウベルが激しく揺れた。
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