アズアドッグ

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 車のエンジン音が聞こえなくなるのを待って藤村は立ち上がった。吸い殻の始末をして 店を出る。冷たい夜気に触れた途端、一気に疲労感が押し寄せてきた。皺だらけのスーツ が鎧のように身体にのし掛かってくる。
 春日井にはいずれ真相を伝えるときが来るだろう。だが、今はあまり深入りさせたくな い。しばらくは彼を遠ざけておき、自由に動ける時間を確保しておきたかった。ゼブラの 話を持ち出し、彼をミスリードしようとしたのは、それが理由だった。決して、うまくは いったとは言えなかったが……。
 セダンを駐車場から出し、走らせる。エンジンはオイルが足りないとでも言いたげに、 からからと乾いた音を立て続けた。
 ロンの死体。――ヘッドライトに照らし出される路面を見つめながら考えた。青あざ で腫れ上がった顔と、胸の上に垂直に立てられたナイフ。ロンが痛めつけられた理由は、 胡蝶蘭での馬鹿げた芝居と無関係ではないはずだった。覚醒剤の顧客リストを流出させた 犯人捜し、そのための拷問に違いない。昨日の夕方の時点では、偽のフロッピーがもたら した結果を奴等は知らなかったのだろう。だから、片っ端から怪しい奴を痛めつけるしか 術がなかった。そして、その容疑者リストの最初に載っていたのがロンだったというわけ だ。
 対向車のヘッドライトがガラスの油膜をぎらつかせた。それをスクリーンにして林の痩 せた顔が浮かび上がる。胡蝶蘭へ向かう車の中でロンの名前を出したとき、林が浮かべた 妙な表情。そう、奴の仕業だと考えれば一番しっくりくる。それは確かだった。

 翌朝、昨日と同じスーツを着て藤村は部屋を出た。車を清美のアパートへと向ける。 手荒なことはしないと涼子には約束したが、実際はそうはいかないだろう。辰野の後ろに いる男を、宮田より早く押さえることができれば、ことはずっと運びやすくなる。それに、 あの女に多少苦痛を与えても良心が痛むはずもなかった。
 車を路上に停め、アパートの階段を上る。まだ十時前だった。ドアを叩いたが反応はな かった。夜の仕事から帰って、まだ眠りこけているのだろう。ノブを掴んで、ドアの強 度を試してみる。いざとなれば、ぶち破れないこともなさそうだった。
 いきなり、隣のドアが開いた。
「うるせえなあ。朝っぱらから――」男は藤村の顔に目を留めた。「なんだ、またあんたか」
「悪いな、騒がせて」
「なに、構わないけどよ。たが、隣にゃ誰もいないぜ」
「本当か」
「ああ、昨日の夜からがたがたやってたが、今朝がたガキを連れて出て行ったみたいだぜ」
 藤村は男を押しのけて、彼の部屋へ入っていった。
 奥の部屋の窓から身体を乗り出し、昨日と同じ要領で清美の部屋の窓を押し開ける。鍵は 掛かっていなかった。
 藤村は窓から清美の部屋に降り立った。乱雑なのは昨日と変わらなかった。違うのは、クロ ーゼットが開け放しになっていて、空っぽの中身を晒していることだけだった。握りしめた拳 にじわりと汗が滲んだ。昨日、清美から無理にでも男のことを聞き出していれば……いや、せ めて、あの子だけでも連れ出していれば……。
 しばらく、部屋の真ん中で立ちつくした後、藤村は手がかりを捜し始めた。彼女の行方を示 すメモ書き、勤めている店の名前が入ったライター、消し忘れた留守番電話のメッセージ。 ――そんなものは何も残っていなかった。あるのはゴミとがらくたばかりだった。彼は埃にむ せながらドアの鍵を開けて部屋を出た。
「誰もいなかっただろう」再び隣の部屋に上がり込んだ藤村に、男が言った。「で、どうだ、 金目のもんは何か残ってたかい」
 藤村は無視して冷たい口調で訊ねた。
「彼女がどこに行ったか思い当たることはないか」
「さあな、見当もつかねえな。つき合いなかったからよ」
 藤村は電話の側に置いてあったメモ帳に携帯電話の番号を書き付けた。財布の中から札を抜 き取りメモ帳の間に挟み込む。
「隣に動きがあったら連絡してくれ」
「いいけどよ。一体、何があったんだ?」
「説明しにくいことでね。ただ言えるのは、子供が危ない目に遭うかも知れないということだ」
 男は立ち上がると、メモ帳から札を抜き取り、藤村のスーツのポケットにねじ込んだ。
「子供っていうのは、あんな扱いを受けちゃいけねえ。俺も女房に愛想を尽かされて娘と別 れて暮らしちゃいるが、自分の娘があんな目にあったら黙ってられねえ。――俺もあの子の ために、早く何かしてやるべきだったのかも知れねえな」男は首を横に振った。 「さっきはつまらねえ軽口叩いて悪かった」
 気にしていない、と藤村は言い、いつでも良いから電話をくれるようにと念押ししてから、 男の部屋を後にした。
 小春日和の一日になることを予感させる爽やかな朝だった。こんな日を何にも患わされる ことなく楽しめたのはいつのことだったろうか。また、楽しめるようになるときは来るのだ ろうか。そんなくだらないことを考えながら藤村は車に向かった。  

 
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