アズアドッグ

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 職員室に現れた橘一樹は藤村を見て顔をしかめた。藤村は人の良さそうな教頭に礼を 述べてから、来客用のソファーを離れた。入り口に立ちつくしたままの一樹の腕を取り、 引っ張るようにして廊下へ出る。授業中であるとはいえ、校舎の中は異様なほど静まり 返っていた。だが、県内で有数の進学校であることを考えれば、これが当然のことなの かも知れない。
 教頭の視野から外れた途端に、一樹は藤村の手を荒々しく振り解いた。
「じいさんが事故に遭ったって、どういうことなんだよ」
「嘘だ」
 少年はあきれ顔で目の前の男を見つめた。藤村は顎をしゃくった。
「いいから黙ってついてこい。正門の前に車を停めてある」
 ふてくされた顔をしながらも彼はおとなしく藤村に従った。
 車の助手席に座ると、少年は所在なさげにぞもぞと身体を動かした。藤村はエン ジンをかけておいてから、ウインドウを細く開けた。
「またおじいさんが当たり屋をやったと思ったか? 悪かったな、他にいい口実が思い 浮かばなかったんだ」
「何処にいくんですか」
 藤村は煙草に火を点けた。
「すぐに分かる」
 その煙草を吸い終わらない内に、車は都銀の駐車場に滑り込んだ。サイドブレーキを引い てから、ポケットに入れておいた三文判を一樹に放る。
「なんですか、これは?」
「それで、君の口座をつくる」
 少年はシートの中で身体を強張らせた。
「じいさんに金を渡すのをやめて、今度は僕に渡すつもりですか。よしてくれ。あんたの自 己満足のために使われるなんてごめんだ」
 ドアに手を掛けると少年は車を降りようとした。その背中に藤村は静かに話しかけた。
「私の持っている金がどんな金か知りたくないか」
 一樹は動きを止め、訝しげな顔を振り向けた。
「どういう意味だよ。金はただの金じゃないか」
 灰皿に捨てた煙草のフィルターが燻り、嫌な臭いが車内に広がった。
「この金は覚醒剤を売って作った金だ。目には見えない汚れが付いている。分かるか? こ の金は私が持っていたままじゃ、いつまでも汚い金のままだ」藤村は灰皿から吸い殻を拾い、 もう一度強く押しつぶした。「だが、あいにく、この金をきれいに使える人間となると、ひとりしか思い浮 かばないんだ」
 一樹は付き合いきれないとでも言いたげに首を横に振った。
「分からねえよ。あんたの言ってること」
「じゃ、もっと簡単に言おう。この金は君の進学資金になるか、君のおじいさんのギャン ブルにつぎ込まれるかしか道がない。さあ、どっちを選ぶ?」
 細い肩がすくめられた。
「いいよ、好きにしたらいいだろ。でも、僕はその金を使ったりしないよ」一樹は口を 尖らせ、もう一度さっきと同じ台詞を吐いた。「あんたの自己満足のために使われるな んてまっぴらだ」

 銀行を後にしてから、一樹は黙り込んだままだった。助手席で、落ち着かなさげに 幾度となく鞄を抱えなおしている。多分、作ったばかりの通帳が気になるのだろう。
 自宅の近くで車を停め、一樹を降ろす。彼は振り向きもせずに、堤防沿いの道を歩き始めた。藤村に見 られていることを意識してか、肩を大袈裟にいからせている。バックミラーの中を遠ざかる その姿を、苦笑しながら見送ってから、藤村はゆっくりと車を出した。
 アズアドッグへ向かう途中、涼子の昨夜の言葉を思い出した。
 車を路肩に寄せ、携帯のボタンを押す。コール音一度だけで、涼子の声が応えた。


 
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