アズアドッグ

49


「どうだったの?」
 藤村からの電話だと分かると、涼子は挨拶抜きで訊ねた。
「駄目だった」
「どういうこと?」
「女に逃げられた。子供も一緒だ」
 長いため息が受話器から流れた。
「昨日あなたが行ったせい?」
「多分そうだ。それ以外に理由はない」
 一呼吸おいて話し出した彼女の口調は明るく変わっていた。
「でも、彼女が逃げたっていうことは、あなたの考えが当たって いたということね。――彼女だって、いつまでも家に帰らないわけにはい かないわ。じっくり待っていればいいのよ」
 それだけの時間がないんだ。その言葉を飲み込み、曖昧な相づちを 打つ。
「今どこにいるの?」
「もうすぐアズアドッグに着くところだ」
「そう……。ねえ、わたしも仕事が一段落したところなの。よかったら うちに来て食事しない」藤村が返事をしない内に慌てて付け加える。 「もう少し詳しい話も聞きたいし」
 竜野のことは気になる。だが、清美から手繰ろうとした糸が切れてしまった 今となっては、動きが出るのを待っているしか手はない。こんなときにあ せって動き回っても、何もいいことはないものだ。
「どこにいけばいい?」
 涼子は自分の家の住所を告げた。ほっとしたような口振りだった。
「大きな病院の隣にあるマンションよ。すぐに分かるわ」
 一時間後に訪れることを約束して藤村は電話を切った。張りつめていた気分が 緩むのを感じた。 今、藤村が気を許して話ができるのは涼子と須賀見ぐらいのも のだ。彼女もそれを知った上で誘ってくれたのだろう。彼はウインカーを 出すと、アクセルを踏み込み、車の流れの中に入り込んでいった。

 涼子の言った通り、マンションはすぐに分かった。藤村は手ぶらで来たこ とを悔やみながらチャイムを鳴らした。
「相変わらず時間には正確ね」
 2LDKの間取りはひとりで暮らすには十分なのだろう。通されたリビングは すっきりと片づいていて、余分なものは何も置かれてなかった。藤村は涼子に勧 められるままソファーに腰を下ろし、もう一度部屋を見回した。壁の色も家具もベ ージュで統一されている。サイドボードの上、水槽の中を色とりどりの魚が泳 ぎ回っていた。
「たくさん作ってるのよ。食べきれるかしら」
 対面カウンターの向こうから涼子が笑いかける。部屋にはパスタを茹でる匂い が漂っていた。
「何か手伝おうか」
 藤村の言葉に涼子は吹き出した。
「柄にもないこと言わないで。びっくりするじゃない」
 しばらくして彼女はテーブルの上に皿を並べはじめた。チーズの盛り合わせ、 ガーリックトースト、オリーブとスライスオニオンのサラダ、 アンチョビの乗ったクラッカー、そして最後に彼女はモスグリーンの縁取りがある大皿を テーブルの真ん中に 置いた。そこには様々な色、形のパスタが盛り付けられていた。
「あいにくアルコールはこれしかないのよ」
 彼女が冷蔵庫から取り出した白ワインのボトルを開けて、ふたりは食事を始め た。しばらくはふたりとも何も話さなかった。話そうとすれば、共通の話題は辰野のことか、 昔話しかない。そして、それはどちらも食事中の話題としてはふさ わしく思えなかった。
 フォークでオリーブを突き刺した涼子が、ふいに笑った。
「ねえ、あなたをあの店で初めて見たとき、私がどう思ったか当ててみて」
「アズアドッグでかい?」
 彼女は頷き、目を弓形に細めた。藤村は少し考えるふりをしてから首を振って 降参した。涼子はかみ砕いたオリーブをワインで流し込んだ。
「ああ、このひとは刑事なんかじゃなくて、こういう店にいるべきひとなんだって 思ったのよ」
「何故だ」
「さあ、何故かしら。でも、妙にしっくりと馴染んでみえたのよ、あなたとあの お店が。――そう言うと不愉快かしら」
 藤村は、いやと応え、グラスを口に運んだ。
 それは彼自身も感じていたことだ った。宮田に伴われて初めてアズアドッグに足を踏み入れたとき覚えた不思議な 一体感。捨て鉢になっていた気持ちを癒してくれる何かがそこにはあった。
 記憶をたどる内に自然に思い出してきたアズアドッグでの面白い話や、いざこざ の顛末を涼子に話してやった。 彼女はときに声を上げて笑いながら、藤村の話に聞き入った。彼女が声を出して 笑うのは久しぶりじゃないのか、藤村はそんなことを考えながら話を続けた。 とても食べきれないと思っていた料理が、いつのまにかすべてなくなっていた。
 藤村は煙草をくわえ、涼子はコーヒーをいれるために席を立った。一瞬、彼女と 過ごしたあの晩と今日とが、何千日ものときを超えて直接つながったような錯覚 を覚えた。藤村は立ち昇る煙を目で追いながら、しばらくその感覚に気持ちを委ねた。 ソーサーがたてたカチリという音が、彼を現実に引き戻した。涼子は椅子に座ると 口調を改めて言った。
「その子の様子を教えてくれるかしら」
 ワインがもたらした微かな酔いが退いていった。藤村は吸いさしの煙草を、灰 皿代わりの小ぶりな陶器皿の上に置いた。


 
50