アズアドッグ



 朝七時。ホテルのロビーには人気がない。鶯色のスーツを着た男が、フロントの奥 からロビーの方をぼんやりと見ているだけだった。藤村は男の前を通り過ぎ、エレベー ターに乗った。
 地下駐車場。目当ての車はすぐに見つかった。藤村はすぐには車に近づかず、支柱に凭 れセブンスターに火を点けた。一本吸い尽くすまで待つ。何も起こらなかった。吸い殻を 踏み消し、革手袋をはめながら車に近づく。キーを取り出し、ロックを外した。
 車内は借りたばかりのレンタカーのように小綺麗だった。ダッシュボックスの中。 空っぽだった。トランクのレバーを引く。手応えがない。外に出て後ろに回る。キー をトランクの鍵穴に差し込んだが、トランクは開かなかった。藤村は運転席に戻りエンジ ンをかけた。灰皿の中、吸い殻が何本か残っている。ケント。ほんの二三回吸っただけで 消した、そんな感じの長さだった。
 宮田は三つ店を持っている。胡蝶蘭、ミリオネア、そしてアズアドッグ。二丁目にある 店は胡蝶蘭。女の子を二三人つけて、二時間で五万取る。そんな店だ。ミリオネアも同じ 様な店だが、女の子の国籍が違う。胡蝶蘭はアジア、ミリオネアは南米。
 藤村は胡蝶蘭へと車を向けた。
 ハンドルを握りながら藤村は半年前のことを思い出していた。

「辰野が離婚届けを持ってきたの」
 涼子は長い髪を雨に濡らしていた。藤村が迎えに行くまでバーの外壁に寄りか かって待っていた。ちょうど日付が変わったところだった。身体を滑り込ませた 助手席で彼女は小刻みに震えていた。唇には血の気がなかった。
「わたしと別れたい、そう言ったわ」
 路肩に停めた車。藤村は煙草に火を点けて彼女が続けるのを待った。だが、彼女は それきり黙り込み、フロントガラスの向こうを見つめるだけだった。藤村は煙を吐き出し ながら言った。
「辰野にわけを訊いてみたのか」
 涼子は首を振った。
「無駄よ。あの人は自分が喋りたくないと思ったことは絶対喋らないわ」
 彼女は藤村を見た。
「でも、それはどうでもいいの。それよりもあの人のことが心配なの」
 両手が膝の上できつく結ばれた。
「最近おかしいのよ。携帯を一台増やしてしょっちゅうそれで話をしているの。コール もよくあるわ。真夜中でもよ」
「仕事じゃないのか」
「それなら支給されている携帯にかかってくるはずよ」
 情報提供者のために携帯を幾つか持つことも珍しくはない。だが、涼子に、そうは言 わなかった。
「それに一度あの人が消し忘れていた留守電を聞いたことがあるの。ひどく崩れたしゃべ り方をする男の声が入っていたわ。――クスリは確認した、金は振り込んだ、確かめろ 」涼子は湿った前髪の下で目を細めた。「そう、吹き込まれていたわ」
「いつのことだ」
「一週間前よ」
 藤村は黙り込んだ。涼子も身じろぎひとつしなかった。ラジオのDJがヒットチャー トを早口で紹介していた。
「俺にどうして欲しい」
 涼子は眉をひそめた。
「あなた、お酒を飲んでるのね…。ごめんなさい、無理に呼び出しちゃったからね」
 三年ぶりに聞いた電話の声。微かに湿った声。ボトルを一本空けたばかりだったが、気 がついたときにはハンドルの後ろにいた。
「飲んではいるが、酔っちゃいない。心配することはない」
 涼子は首を振った。彼女の身体からもアルコールのにおいがした。彼女が待っていた バー。かつて、藤村と涼子が幾晩も過ごした場所。
「いまさら、あなたに頼み事をしちゃいけない。それは分かっていたの。でも、他に誰も いないのよ」
 車の横を通り過ぎる男たちが、傘の下から露骨な視線を涼子に投げかけていった。
 クスリ。覚醒剤のことならやっかいだった。現職警官と覚醒剤。内輪では決して珍しい 話じゃない。だが…。
「辰野が職務に反することに関わるとは思えない。そういうタイプじゃない」
 生真面目な男。涼子が選んだ男。
 涼子の唇が歪んだ。笑っていた。藤村は彼女がそんな笑い方をするのを見たことがな かった。
「じゃあ、辰野が離婚届けを突きつけるような男だと思う? 変わったのよ、あの人も」
 あなたと同じように。私と同じように。
「あいつは女をつくることはあっても、犯罪に関わるようなことをすることはない」
「ひどいことを言うのね」彼女がドアノブに手を掛けた。「電話をする相手を間違えたよ うだわ」
 ドアが開くと激しい雨音が車内に響いた。藤村は彼女の右手を掴んだ。
「家まで送っていく。ここで放り出す訳にはいかない」
 彼女はおとなしくドアを閉めた。
「辰野のことは調べておく。それで気が済むのなら」
 頷く。湿った前髪が揺れた。
 車を出した。アスファルトに溜まった水をタイヤが切っていく。繁華街を抜け、ア クセルを踏み込んだ瞬間だった。ヘッドライトの中に飛び出してきた影。ブレーキを踏 む間もなく、ボンネットに転がった。
 車を降り、うずくまる影を見た。老人。腹を押さえ、呻いている。たいした怪我 じゃない。藤村は振り向き、車の側に立ちつくす涼子に言った。
「このまま街に戻ってタクシーを拾うんだ」
「でも…」
「君がいると俺の立場がまずくなる。分かってくれ」
 涼子は頷いた。バッグを胸に抱いて早足で歩き始める。対向車が来て、徐行し、停 まった。降りてきた男に救急車を呼ぶように頼んだ。
 それからは恐ろしいほど早く事は運んだ。気が付いたときには職を失っていた。
 あの日以来、涼子と話していない。
 辰野の件もそのままだった。

 今、トランクに積んでいるクスリ。涼子が口にしたクスリ。おそらくなんの関係もない のだろう。だが、その符合は藤村の中の何かをくすぐった。
 二丁目。派手な看板。夜になると趣味の悪いイルミネーションが加わる。
 胡蝶蘭の駐車場に車を突っ込んだ。
 車を降りてロックする。藤村が視線を感じ振り向くと、胡蝶蘭の半開きにされたドアか ら女が見ていた。背の高い女。キャミソールの上からでも腰のくびれがはっきりと分 かった。女は藤村の視線を一旦受け止めてから、興味がないというようにドアを閉めた。 日本人、外人、分からなかった。
 八時半。まともな人間が働き出す時間。
 藤村はクラウンのキーをポケットに落とし込み、私鉄の駅へと歩き始めた。