アズアドッグ

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 清美のアパートでのことを、一部始終、涼子に話して聞かせた。鍵の掛かった部屋に入り込んだ方 法だけを除いて。
「自分と血が繋がっている子供をそんな風に扱えるなんて……」
 あの女なら自分の子供にだって同じことをできるだろう。そう思いながら藤村はコー ヒーカップに口をつけた。それきり黙り込んだふたりの間を、壁時計が秒を刻む音 だけが流れた。藤村がカップをテーブルに戻して視線を上げると、唇を薄く開 いた彼女の横顔があった。その瞳は水槽を泳ぐ熱帯魚をぼんやりと見つめている。
「ねえ、辰野はどうして私と別れようとしたのかしら?」彼女は視線を動かさないまま 言った。「もし、その子を一緒に育てようと言ってくれれば、私は喜んでそう したのに」
 彼女の顎から喉にかけてのラインが、白色灯に照らし出されていた。バーの間接 照明の下で見ていた頃よりも、それは、ずっと滑らで、柔らかく見えた。藤村はさり げなくカップに視線を落とした。
「子供はつくらなかったのか、それともできなかったのか」
 彼女は水槽から目を離し藤村を見た。
「できなかったのよ。ふたりでお医者さんにも行った。――子供ができにくい体 質だと言われたわ。私の方がよ」小さく首を振る。「もし、子供がいれば随分違ったの かも知れないわね。――ほら、さっきのパスタ皿、新婚旅行のときに買ったの。 子供ができて、一緒に食事ができるようになったら使おうと思って取って置いたんだけど……」
 彼女はふいに言葉を切ると目を細めた。
「分かったわ。そういうことだったのね。――そう、いかにもあのひとが考えそうなことだわ」
 引き取りたい子供がいる。その言葉を聞けば、不妊の理由が自分にあると知った涼子が 傷つく。おそらく、辰野はそう考えたのだろう。
「もちろん、それだけじゃない。あの子はとても複雑な環境で育ってきている。もし、一緒に暮らすことに なれば、苦労するのは君だ。それが分かっていただけに、辰野は話を切り出せなかったんだろ う」
 涼子は頬を緩めた。
「なぐさめてくれるの? あなたも随分変わったのね。前はそんな風に優しくしてくれたこ となんか一度もなかったのに」
「なにも変わっていないさ。ただ、歳を取っただけだ」
 藤村はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。
「おいしかった。久しぶりにまともなものを食べたような気がする」
 涼子も立ち上がった。
「もう、帰るの? もっとゆっくりしていってくれればいいのに」
「悪いがそろそろ出勤時間だ」
 涼子は時計を見た。
「そうだったわね。あのお店にいるのがあなたの仕事ですものね」ふいに口ごもり、顔を伏 せる。「ねえ、また来てくれるかしら。――ひとりで食事をしたくない日もあるのよ」
 藤村はテーブルに置いていた煙草のパッケージを、上着の内ポケットにねじ込んだ。
「君も随分変わったな。そんなしおらしい言葉を聞くとは思わなかった」
 彼女は顔を上げて、はにかむような笑みを浮かべた。
「私も歳を取ったっていうことね、きっと」

 客で溢れ返った店内を見て、今日が週末なのに気が付いた。バーテン達の目礼を受け ながらいつものテーブルへ向かう。椅子に座ると、RESERVEDと書かれたパネルを伏せ、 テーブルの端へ滑らせる。バーテンがターキーのボトルとグラスを持ってきた。
「須賀見さん、おみえになってますよ」
 きっと、奥でダーツを投げているのだろう。だが、今は、人混みに遮られてその姿は見えなかった。礼を言 う間もなくバーテンはカウンターの向こうに戻っていた。藤村はボトルの封を切り、グラスに なみなみとバーボンを注いだ。ワインの酔いなど、すでに欠片さえ残っていなかった。
「チュニジアの夜」がスピーカーから流れていた。そのトランペットの音色には覚えがあったが、 プレイヤーの名前がどうしても出てこない。アルファベット順にトランペッターの名前を数えている と、テーブルの上に陰が落ちた。黒いピンストライプのスーツを着た須賀見が立っていた。
「何を、ぼんやりしているんだ」
「トランペッターの名前が思い出せない」
 天井に吊されたスピーカーを親指で示す。
「リー・モーガン。――もっと、ましなことに頭を使ったらどうなんだ」
 手に持っていたマティーニのグラスをテーブルに置き、藤村の向かいに座る。彼は藤村の顔を じっと見つめた。
「どうやら、やっかいごとは片づいていないようだな。もう何日もダーツを握ってさえいないだろう」
 藤村は苦笑で応えた。須賀見は首を振った。
「何故、そんなことに首を突っ込む? 悪いことは言わん、いい加減に手を切るんだ」
「もう少しで終わるんだ」
「相変わらず、その答えか。――分かった。だが、無理はするなよ。助けが必要だったらすぐに 言ってこい」
 それから須賀見は口調を変え、今度のダーツ大会の話を始めた。かなりレベルの高い戦いに なりそうだということ、だが、自分たちの実力であれば悪くないところまでいけそうだということ、 須賀見はひと通り喋り終えると、心配そうに藤村の指先を見やった。
「まあ、全てはあんたの腕が落ちていないことを前提としての話なんだがね。俺としては、 そのやっかいごとが早く片づくことを祈るしかないな」
 須賀見は椅子を立った。
「俺の携帯番号は覚えているな。くだらない遠慮なんかするなよ」
 藤村は頷いた。須賀見は右手を小さく振ると、出口の方へと姿を消した。

 
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