アズアドッグ

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 赤い皮のパンツに包まれた脚が近づいてきて、テーブルの側で止まった。 藤村は手に持ったグラスから視線を上げた。青く塗られた瞼の下から、マリが冷たく 見つめていた。
「あんな奴が趣味なの?」マリは枯れ木のように細い腕を胸の前で組んだ。 「あたしにはインポだって嘘をついたくせに」
 藤村は煙草に火を点け、立ち昇る煙を透かしてマリを見た。ピンクのルージュが剥げて 土気色の唇が覗いている。
「何とか言ったらどうなのよ。――あたしより、あんな奴の方がいいっていうわけ?」
「何を勘違いしてるんだ」
 マリは鼻で笑った。
「しらばっくれないでよ。――まあいいわ。せいぜい病気をもらわないよう気を付けるこ とね」
 顎を突き出してきびすを返すと、貧弱な肉付きの尻を左右に振りながら店の奥へと消え ていった。 また、今晩も白人に色目を使うつもりなのだろう。無駄なことだというのは本人が一番 よく分かっているはずなのに。
 携帯が鳴った。通話ボタンを押しても、すぐには声が聞こえてこなかった。ひとの気 配はしている。藤村は携帯を耳に当てたままじっと待った。ふいに荒い息が鼓膜を 打った。
「みゆきよ。――部屋に来て」
 それだけで切れた。藤村は携帯をポケットに戻し、席を立った。テーブルを 片づけるよう、バーテンに目で合図を送っておいてから店を出た。

 マンションのエントランス。みゆきの部屋番号を押しても応答はなかった。一旦、表に 出て、ギリシャ風の支柱に凭れながら煙草をふかす。しばらくすると、右手にギター ケース、左手に髪の毛の赤い娘を抱えた男が、身体を上下に揺らしながらマンションへ 入っていった。藤村はゆっくりと、ふたりの後を追った。男が暗証番号を押し、ロックが 解けた。ドアを男が押し開く。赤毛の女に続いて、藤村は身体を滑り込ませた。そのまま、 一緒にエレベーターに乗り込んだが、彼等は藤村のことを気にもしていなかった。 ふたりは視線を絡ませ、お互いにしか分からないメッセージを送り合うのに夢中になって いた。
 最上階。みゆきの部屋のチャイムを鳴らす。何も起きない。ノブに手を掛けると、ドア はゆっくりと内側に開いた。後ろ手にドアを閉め、鍵を掛ける。廊下を抜けてリビングに 入った。誰もいない。廊下を引き返しながら、両脇の部屋を順に開いてゆく。
 最後に寝室だけが残った。藤村は慎重にドアを押し開いた。
 セミダブルのベッドの上にみゆきがいた。手足を大の字に開いて寝ている。 蛍光灯が彼女の裸身を白く照らしていた。他に誰もいないことを確かめてから、藤村は部 屋に入った。ベッドの足元に立ち、彼女の様子を窺う。目は閉じられている。形の良い胸 とそれに続く平たい腹は静かに波打っていた。鳩尾の窪みには白濁した液が溜 まっている。藤村は彼女の枕元に近づくと、手首とベッドの支柱を結んだロープを解き 始めた。手のひらが真っ白になるほど、それはきつく結ばれていた。
 ようやく両手足のいましめを解き終わると、それを待っていたかのように彼女が目を開いた。
「よく入ってこれたわね」
 落ち着いた声だった。
「鍵は開いていた」
「分かってるわ。下のオートロックのことを言ったのよ」
「あんなものは、気休めに過ぎないさ」
 彼女は手首をこすりながら上半身を起こすと、ヘッドボードの上のティッシュを荒々 しく抜き取り、腹の上の液体をぬぐい取った。男の精のにおいが一瞬、濃く 漂った。それを追いやるために、藤村は煙草の火を点けた。くわえ煙草のまま、唇の端 で訊く。
「誰だ」
 みゆきは両足を揃えて、ベッドから下ろした。
「林よ」
 バスローブを拾って着ると、藤村の方を振り向く。
「宮田からの届け物があるっていうから、部屋に入れたのよ。あいつは、宮田のいい なりだからこんなことをするとは思わなかったわ」
 削げた頬、暗い色の目。胡蝶蘭へ向かう車の中で見た林の顔が浮かんで消えた。
「何故、俺を呼んだ」
「林が呼べって言ったのよ」
 藤村はみゆきの目をじっと見つめたまま、煙草をふかした。やがて、根負けしたように 彼女は続けた。
「終わった後に、良かっただろう、なんて言うもんだから、あなたに抱かれたときの方 が、百倍よかったって言い返してやったのよ。そしたら、無茶苦茶怒りだして……。 私を縛ってからあなたに電話をかけさせたのよ」
 藤村は彼女の顔の横に向けて煙を吐いた。
「余計なことを言ってくれたもんだな」
「しょうがないでしょ。本当のことなんだから」
 彼女はそう言い捨てると部屋を出て行った。しばらくすると、シャワーを使う音が聞こえてきた。
 宮田の許し無しに、林がこんなことをするはずがなかった。加納の裏切り に対する意趣返し、あるいは警告、おそらくそんなところだろう。
 藤村は寝室を出るとリビングへ入った。テレビを点けてソファーに座る。
 民族紛争の収拾策を、笑顔を浮かべて話し合う男達が映し出された。画面は次に、紛争の 現場に切り替わった。十代半ばの少女がトラックの荷台から何の感情もこもらな い視線でカメラを見つめている。亜麻色の髪が、砂を含んだ強い風に吹かれ、激しく乱れ ていた。彼女は自分達の将来を決めるかも知れない話し合いが、皺一つない スーツを着込んだ男達によってなされていることを知りもしないのだろう。 たとえ、知ったとしても、何の気休めにもなりはしないが。
 乾ききっていない髪をかき上げながら、みゆきがリビングに入ってきた。さっきとは違 うバスローブを纏っている。彼女はリモコンでテレビを消し、藤村が座るソファーの前に立った。 右手で腰の上の結び目を解くと、白いバスローブが肩からゆっくりと滑り落ちた。

 
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