アズアドッグ

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 バスローブの下に、みゆきは何も着けていなかった。彼女は挑むような目で藤村を見下ろした。 画像の消えたテレビから目を離し、藤村は彼女の視線を受け止めた。
「口直しでもするつもりか」
 みゆきは薄く笑った。
「大した自信ね。――ええ、でもそういうこと。あいつの躰の感触を忘れたいのよ」
 藤村は身を乗り出し、右腕で彼女の腰を強く抱き寄せた。小さな驚きの声が彼女の口から 漏れた。そのまま、柔らかい身体をソファーに押しつける。藤村は彼女の顔に落ちた髪をかき上 げ、覆い被さるようにして唇を合わせた。手で頬を挟み口を大きく開かせ、舌を深く差し入れる。 潤った彼女の舌が、すぐにそれに応えた。微かなミントの香りがした。みゆきの手が藤村の背中 に回った。藤村はその腕を掴むと、彼女の躰を押し離した。
「何故、林がここへ来たと思っているんだ」
 みゆきは目を細めた。
「私に気があるのは知ってた。でも、何故今夜あいつが来たのか、 それは分からないわ」みゆきはそこまで言って、口を歪めて笑った。「きっと、宮田の気まぐれ でしょ。あなたをたらしこむよう、私に仕向けたときのように」
 みゆきは藤村の手を解いてソファーを立つと、サイドボードからボトルを取り出して戻ってきた。自分が裸である ことなど、気にも掛けていない仕草だった。
「宮田は自分で私を抱けないから、代わりに他の男に抱かせるのよ」
 その言葉には何故か憎悪の色は含まれていなかった。ただ、あるがままのことを淡々と述べ ているといった感じだった。彼女はフォアローゼズをグラスに満たすと、一口自分で飲んでから 藤村に手渡した。
「君が死んだ姉さんに似ているからか」藤村はグラスを呷り、唇を手の甲で拭った。 「宮田が君を抱けない理由は」
 みゆきは鼻で笑った。
「多分、そうなんでしょ。宮田は姉にぞっこんだったわ」
 藤村はボトルを掴み、中身をグラスに注いだ。
「自分が愛した女に似ている、それだけの理由で女を抱けなくなるような男か? 宮田は?」
「何が言いたいの」
「自分が殺した女に似ているから――。それが本当の理由じゃないのか」
 みゆきは一瞬間を置いて噴き出した。
「一体、そんなことを誰に吹き込まれたのよ。姉が死んだのは事故だったのよ。それは はっきりしているわ」笑みが消えた。「ああ、分かったわ。弟ね。あの子がそんなこと を言っているのね。どうかしてるわ、あの子が言うことをまともに受けるなんて」
 藤村は何も言わず、バーボンを口に運んだ。飲み干したグラスをテーブルに置くと、ガラス同士が 触れ合う音が部屋に冷たく響いた。
「こんなことをされても、宮田と縁を切らないのか。そんなに、この暮らしが気に入っているのか」
 彼女は藤村の置いたグラスを取り上げ、自分の為にもう一杯注いだ。
「このマンションのことが言いたいのなら、的外れね。私が手放したくないのは胡蝶蘭。あのお店よ。 あなたから見ればただの下卑た店かもしれないけど、私はあの店が好きなの。そう、愛していると 言ってもいいわ。――おかしいかしら」
 前のママを追い出してみゆきが新しいママになった――確か金森はそう言っていた。
「あの世界で店を持つのがどれだけ難しいことか分かる? サラリーマンと違って、地味な努力を していれば、いつか日の目を見るなんてことはないのよ。運。運なのよ、全てが。それがなきゃ、 店を持って、続けていくことなんかできやしないのよ。――わたしにとっての運は、宮田に拾われた こと。もし、あいつから離れれば、わたしは二度と店を持つことなんかできやしないわ」
 みゆきにとっての胡蝶蘭、自分にとってのアズアドッグ、それは似た様なものなのかも知れない。 藤村はそう思いながら、バーボンを飲むみゆきの横顔を見つめた。
 藤村はソファーを立つと、フローリングの床に落ちたままのバスローブを拾い、みゆきに放った。
「いいだろう、だがこれだけは言っておく。加納と宮田、近い内にどちらかが痛い目を見ることになる。 どっちに付くか、腹を決めておくことだ」
「どういうことよ。――あの子、本気で宮田になにかするつもりなの?」
 昨日、店の奥でなにがあったのかを、本当に知らないような口振りだった。
「加納は宮田に復讐するつもりでいる。もし、止める気があるんだったら今の内だ」
 みゆきは立ち上がると、ゆっくりとバスローブに手を通しながら言った。
「宮田が刑務所にいる間、姉さんは子供を連れてしばらく実家に帰っていたのよ。子供は三歳になったばかり のかわいい男の子だったわ。弟はその子をとてもかわいがっていた。ほんの半年ほどの間だけだった けどね。あの、なんとかいう男が姉さん達を迎えに来て、出て行くまでのことだったから。弟は、それからずっと あの子のことを気に掛けていたわ。――火事で三人とも死んだときには、自分の子供を 失ったように打ちのめされていた。そのころは学生だったんだけど、結局それが理由で 中退したのよ」みゆきは息を継ぎ、静かに続けた。「だから、あの火事が宮田のせい だと思っているのなら、私には弟を止めることなんてできない」
 藤村は黙ったままみゆきに背を向けた。みゆきが呼び止めた。
「あなたなら、あの子を止められるかもしれないわ」
 彼は振り向かずに、小さく首を振った。
「止める気はない。彼にはやりたいようにやらせる。どんなことになったにしても、後で悔やむよりは ましだ」
 みゆきが気色ばんだ。
「それじゃ、どうして私には止めさせようとするのよ。私が店を失いたくない一心で弟を止めると でも――」
 藤村は彼女の言葉を遮った。
「――姉弟だからさ。他に理由はない」
 彼女は何も応えなかった。藤村は彼女を残し部屋を後にした。
 エレベーターを待ちながら、煙草をくわえる。口の中にはフォアローゼズでも消せなかったみゆき の舌の感触が、まだ生々しく残っていた。

 
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