アズアドッグ

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 暗闇の中で白いものが蠢いている。捉えようのない形だったそれは、徐々に女の裸身へと 姿を変えていった。引き締まった腰、上下に揺れる張りつめた乳房。乳首が上を向いた その胸の形には見覚えがあった。――手足をベッドに縛り付けられていた女。
 みゆきは目を閉じ、半開きの口から息を漏らしている。何かをうわごとのよ うに喋りながら徐々に動きを早めていく。その声が獣じみたものに変わり、上体が大きく揺れ た。そのはずみに長い髪が垂れて顔を覆う。頭を仰け反らせ振り払った髪の中から、青白い顔 が覗いた。――それは涼子の顔に変わっていた。
 彼女は動きを止めるとじっとこちらを見つめた。目には蔑みの色が浮かんでいる。歪んだ唇が ゆっくり開き、甲高い笑い声が溢れ出した。声が大きくなるにつれ、口は左右に大きく拡がり、 目は吊り上がり、瞼は腫れぼった く盛り上がる。その瞼はいつの間にか真っ青に染まっていた。彼女は唐突に笑いを収めると、 吐き出すように言った。
「あたしには、インポだって言ったくせに」
 藤村はパイプベッドの上で目を覚ました。身体は冷え切っているのに、背中には汗をべっとりと かいている。窓からの日射しは既に昼が近いことを告げていた。
 涼子の顔を頭から締め出し、ベッドを降りる。熱いシャワーを浴びると、強張っていた筋肉が ゆっくりとほぐれていった。身体を拭いてから髭を剃る。シェーバーを持つ手が滑り、右頬の下 を切った。わずかな傷なの に血が止まらない。絆創膏を貼ると、鏡の中の顔が三つは老け込んだ。部屋に戻り、 チノパンを履きシャツを突っ込む。コーデュロイのジャケットをひっかけながらふと思い立ち、クローゼット に吊した服の中から金をかき集めていく。あちこちのポケットに無造作に詰め込まれた万札。集まったのは、 ざっと三十万。藤村は札束を折ってパンツのポケットに突っ込み、部屋を後にした。

 金森はドアを開き、そこに立っているのが藤村だと分かると、ため息をついた。
「なんや、藤村はんかいな。――ま、入ってや」
 金森について入った部屋に、加納の姿はなかった。
「奴は?」
 藤村の問に金森は肩をすくめた。
「あの日以来、まともに顔を見せへんのですわ。たまに来ても黙ってパソコンの前に座ってるだ けやし、話しかけてもうんともすんとも言わへん」皺を寄せた眉間を人差し指で擦る。「誰に頼 まれてフロッピーを持ち出したんかも喋るわけないし。どうにもならしまへんのや。――なんと かしてやりたいんやけどな」
「好きにさせておけばいい」
 金森の目に珍しく憤りめいたものがちらついた。だが、それはすぐに影を潜めた。金森は藤村 に背を向けると、コーヒーメーカーをセットし始めた。
「加納ちゃんはこのまま宮田はんと関わっとったらとんでもないことになる。それは藤村はん が一番良く分かってはるはずや。違いまっか」
 豆を計量スプーンで掬いながら金森は言う。藤村はベランダへと続くガラス戸に近づき、それを わずかに引き開けた。冷気が吹き込んでくる。
「胡蝶蘭で一度は加納ちゃんを助けてやったんや。もう一度助けると思って、宮田のことは放って おくように加納ちゃんを説得したってえな、藤村はん」
 藤村はポケットから札束を取り出した。それをテーブルの上にぱさりと置く。その音に振り向い た金村は、怪訝な表情を浮かべた。藤村は窓の外へ視線を逸らして言った。
「拳銃が欲しい」
 金森は首を横に振りながら、視線をコーヒーメーカーに戻し、ミルのボタンを押した。豆を砕く 音が部屋に響いた。
「なんで、わてにそないなことを頼まはんのや?」
 ミルのモーターが止まり、ドリップが始まると、金森は静かな声で藤村に訊ねた。
「あんたなら拳銃を捌いている男の二三人は知っているだろう」
 金森は再び首を振った。
「それはとんだお門違いやで、藤村はん。わてはこんな商売はしとるけど、やくざとはちゃう」
 香ばしいコーヒーの匂いが漂い始めた。
「近い内に必要になる。出来るだけ早く欲しい」
「待ってえな。わてには無理や言うてますやろ」金森は語気強く言い放った後、口調を弱めた。 「仮につてがあったとしても藤村はんには拳銃を渡すわけにはいきまへん。あんなもんを持っとった ら命縮めるだけや。いくら元刑事で拳銃の扱いには慣れてるいうても、いざというときに引き金引くのが 早いのは、性根が据わってる方の人間や。藤村はんと宮田はんでは、藤村はんの方が分が悪い」
 確かにそうかも知れなかった。ためらいのない方が生き残る、そういうものなのだろう。
「宮田とやりあうつもりはない。取引を有利に進める小道具に使うだけさ」
 金森は真意を探るように藤村の目をじっと見つめた。そして、小さくため息をつくと、カップを 取り出し、コーヒーを注いだ。
「いずれにしても、わてには拳銃を手に入れることなんかできへん。あきらめてや」
 藤村は金森が差し出したカップを受け取り、口をつけた。金森はその様子を見ながら呟くように 言った。
「わては加納ちゃんや、藤村はんがおかしなことになるのは見とうないんや」
 藤村の携帯が鳴った。
「春日井だ」
 藤村はちらりと金森の顔を見てから応えた。
「なんだ」
「なんだ、とはご挨拶だな。俺に借りがあることを忘れたわけでもないだろうに」
 藤村はコーヒーを啜った。
「おい、聞いてるのか」
「ああ」
 春日井が小さく舌打ちした。
「例の事件で訊きたいことがある。どこかで会えないか」
「会うのはいいが、話すことはないぜ」
「お前にとっても悪い話じゃない。素直に言うことをきくんだな」
 腕時計を見る。
「アズアドッグで三時。あそこなら邪魔は入らない」
「いいだろう。三時だな」
 電話を切り、コーヒーを飲み干す。
「うまいな。なんていう豆だ?」
「ただのブルマンやがな。――今の電話は誰でっか?」
「ちょっとした知り合いさ」
 藤村はカップを置いて、金森に礼を言うとドアに向かった。
「ちょっと、藤村はん、この金持って帰ってもらわんと困りまっせ」
 金森の言葉が終わる前に、藤村は部屋を出ていた。

 
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