アズアドッグ

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 ビル・エバンスの指が打ち出す旋律がスピーカーから流れている。長いソロが終わりか けたとき、藤村の背中でカウベルが派手な音をたてた。ドアから大股で歩み寄ってきた春 日井は、スツールの上で振り返った藤村の顔を見て、意味ありげな笑いを浮かべた。
「なんだ、また宮田のところの奴等とやりあったのか」
 彼の視線は藤村の頬に貼られた絆創膏に注がれていた。藤村はカウンターの方へ向き直 り、そっけなく言った。
「用件は何だ?」
 春日井は勝手にカウンターの後ろに回り込むと、冷蔵庫の中からミネラルウォターを取 り出した。瓶を呷りながら、藤村の前に戻る。
「最近のミネラルウォターにゃカルキも入ってんのか」
 顔をしかめ、瓶をカウンターに置く。藤村が黙っていると、春日井はぶっきらぼうに話 し始めた。
「ロナルドが殺された日の夕方に、奴の部屋から出てきた男が目撃されている。身長百七 十五、やせ形、色白、切れ長の目、薄いブルーのスーツにグレイのシャツ」春日井は一度 言葉を切り、続けた。「一体、誰だ?」
「俺はそんな趣味の悪いスーツは持っていない」
 春日井はポケットからハイライトを取り出し火を点けた。深々と煙を吸い込むと、藤村 の顔に向けて吐き出した。
「とぼけるなよ。ロナルドをやったのは林なんだろ。お前はそれを知ってるはずだ」
「何故、俺がそんなことを知っている?」
「ロナルドが殺されていると、警察に電話したのはお前だ。匿名で通報したのには理由が あるだろう。誰が殺したかを知っているか、あるいは、自分が殺したか、だ」
 藤村も自分の煙草をくわえた。ライターの火を煙草の先に近づけながら、くぐもった声 で訊ねた。
「犯人を知っていることが、何故、匿名の通報をする理由になる?」
「自分で犯人をとっちめるために決まっているだろう。私が発見者でござい、と申し出れ ば証人として拘束される。そうなれば、犯人を追うことなんかできやしない」
 腕を組んで自分を見下ろしている春日井の顔を、藤村は思わず見返した。春日井はその 視線を捉えて、話を続けた。
「部屋のあちこちに指紋が拭われた後があった。あれも、お前の仕業だろう」
 藤村は目を逸らさずに、黙って先を促した。
「凶器のナイフには、その持ち主である被害者の指紋が残っていた。ということは、犯人 は手袋をしていたということさ。部屋に指紋なんかひとつも残しちゃいない。指紋を消し たのは、ロナルドの死体が転がっていることを知らずに部屋に入った奴だ」
 春日井はそれきり黙り込むと、煙草を吸いきるまで、口を開かなかった。フィルター近 くまで吸った煙草をカウンター越しにシンクへと投げ捨てると、その手で藤村の胸ぐらを 掴んだ。
「いつまで待っても黙りかよ。お前と遊んでいる暇はない。俺は意地でも林を挙げる。そ のためにはお前の力が必要だ。手を貸せ」
「俺に偽証をさせるのか」
 春日井の目に一瞬、強い光が走った。が、彼はゆっくり手を緩め藤村を離すと、二本目 の煙草を取り出し、いつもの苦虫を潰したような表情でふかし始めた。
「この前、姉貴から電話があった」春日井はカウンターの向こうに並ぶ酒瓶に目を遣りな がら言った。「娘が補導されたと言ってな。――グレかけているという話は聞いちゃいた が、せいぜいシンナー喰って万引きしてる程度だと思ってた。ところがだ、話を聞くと売 人からヤクを買っているところを押さえられたらしい。そのヤクを仲間内に流すパイプ役 だったんだとよ」
 春日井はちらと藤村の顔を窺ってから、再び視線を酒棚に戻した。
「普通の女子高生なんだぜ。全く。……姉貴は俺の立場を考えて、済まない、申し訳ない と言っていたが謝らなくちゃならないのは俺の方だ。宮田の様な奴等を野放しにしている 俺達の責任だからな」
 いつの間にかCDは終わっていた。部屋には表を通り過ぎる車の音が微かに聞こえるだ けだった。藤村は低い声で言った。
「話が終わったんなら、帰ってくれないか」
「何だと、俺は――」
「誰がロンを殺したのか俺は知らない。だからあんたに力を貸すことはできない。それだ けだ。――あんたに借りがあることを忘れている訳じゃない」
 春日井は口を開きかけて、閉じた。そのまま藤村に背を向けると、怒らせた肩を揺らし ながらドアへ向かった。
 カウベルが鳴り終わるのを待って、藤村はCDプレイヤーのボタンを押した。
 ピアノの音は何故かさっきより気怠く感じられた。 

 
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