アズアドッグ

55


 九時を過ぎたアズアドッグには、いつもの喧噪が満ちていた。カウンターの中では シェイカー片手にバーテン達が忙しそうに立ち回っている。藤村は椅子に背を預けて、彼 等の動きをぼんやりと目で追っていた。夕方に開けたばかりのボトルは既に底をつきかけ ていた。その最後の一杯をグラスに注いでいると、視界の隅に小柄な男が近づいてくるの が映った。目を上げると眉間に皺を寄せた金森と視線が合った。背中を丸め、黒いポーチ を大事そうに小脇に抱えている。藤村の前に腰を下ろしながら、彼は震える唇を開いた。
「加納ちゃんが宮田はんに捕まりよった」
「どういうことだ」
「さっき、事務所に電話があったんや。林からやった。加納はもう明日からそっちにはい かへんからそのつもりでな、ゆうて……」
「加納はどこにいる」
「胡蝶蘭やと思う。多分、例のフロッピーの件で、しっぽを掴まれたんやろ。加納ちゃん を使ってた奴も一緒に捕まっとるのかも知れん」金森はテーブルに身を乗り出した。「藤 村はん、あんたに頼むしかないんや。加納ちゃんを助けたってえな。この通りや」
 金森は頭をテーブルにぶつけるようにして下げた。隣のテーブルに座っていた女が気味 の悪いものを見るような目つきで金森を見た。彼は頭を上げると、思いだしたようにポーチ のファスナーを開け、中から油紙に包まれた固まりを取り出した。テーブルの上に置かれ たそれは、ごとりと重い音をたてた。
「藤村はんが欲しがってたものや」
 藤村が指先で油紙を捲ると、隙間から黒光りする金属が見えた。
「面倒みてやっていたちんぴらが、わてが大阪出るときに、餞別代わりにくれたもんや。 東京でやばいことするんやったら持っていきいな、言うてな。改造もんやさかい、まとも に動くかどうか分からんけど……」
 油紙を元に戻すと、藤村は包みをテーブルの隅に押しやった。それを拒絶の仕草と受け 取ったのか、金森が頬の肉を強張らせた。
「あんたを危険な目に遭わせとうない言うた舌の根も乾かんうちに、こんなお願いするやな んて自分でもあきれてますのや。わてが助けに行かんと、藤村はんにチャカ渡して行ってこ いなんて言える義理やないのもよう分かってます。そやけど、わてには加納ちゃんを助ける ことはできへん。宮田はんとまともにやりあうことなんてできまへんのや。そんな度胸なん かこれっぽっちもあらしまへんのや」
 語尾が震えていた。藤村はグラスを金森の前に置いた。金森はそれを両手で抱えるように して呷った。グラスを置いたとき、声から震えは消えていた。
「――本当のところは、死ぬのが怖いんや。いつ死んでもかまへん、いつもそう思うてまし たんや。それは嘘やない。女房、子供おるいうても、捨ててきたも同然やし、向こうもわて のことなんか当てにしてへん」テーブルから目を上げ、真っ直ぐ藤村を見た。「そやけど、 いざ本当に死ぬかもしれん思うたら、子供の顔が浮かんできますのや。ああ、あの子に二度 と会えへんのやな、そう思うたら無性に死ぬのが怖うなってきますんや。――勝手な話 でっしゃろ。子供になんて一年以上も会うてやってへんいうのに」
 藤村は立ち上がり、油紙に包まれたものを掴んだ。つられて中腰になった金森に、藤村は 言った。
「大阪に帰るのか」
 金森は頷いた。
「今から事務所に行って、残していったらまずいもんだけ、今晩の内に処分するつもりです のや」
「分かった。――こっちで関わり合いになった人間とは二度と接触しないことだ。今日、こ れから何が起きたにしても」
 まだ、何か言いたげにしている金森を残し、藤村はテーブルを離れた。
 店を出て冷たい夜気を吸ったとたん、右手の包みがずっしりと重みを増した。この前の夜 のように、お遊びで終わらせるつもりは宮田にはない。それは分かっている。藤村は包みを 持ち直すと、キーを取り出しながら駐車場へと足早に向かった。

 
56