アズアドッグ
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最初の信号待ちで、携帯の短縮ボタンを押した。コール四つで須賀見の低い声が応えた。
左手に携帯を持ち替える。
「藤村だ」
「――どうした?」
「頼みたいことがある」
「何だ」
「十一時までに俺がもう一度電話しなかったら、春日井という刑事に連絡をして欲しい」
須賀見は一瞬黙り、やがて静かに言った。
「何を伝えればいい? その刑事に」
「胡蝶蘭で取引が行われている。すぐに来てくれ、と」
「それだけでいいのか?」
「ああ、それだけでいい」
「番号を教えてくれ」
藤村は春日井の番号を教えた。
「無茶はするなよ」
「分かっている」
須賀見の声が柔らかくなった。
「ダーツ大会のことを忘れちゃいないだろうな。すっぽかすんじゃないぜ」
「ああ、覚えているよ」
電話が切れた。信号が青に変わり、藤村はアクセルを踏んだ。
胡蝶蘭のドアを押し開けると、黄色い声が出迎えた。作り笑いを浮かべて近寄ってくる褐
色の肌の娘を手で制して、奥の通路へと向かう。店の中を横切る間、誰も彼を止めるものは
いなかった。ドアを開け通路に出ると、突き当たりの部屋の前に立つ男が藤村を睨んだ。見
たことのない男だった。その身体は彼が背にしているドアより頑丈そうにみえた。藤村は
ゆっくりと歩き、その男の前に立った。
「宮田さんに呼ばれている」
男は身じろぎひとつしなかった。藤村は男の横に回り、ノブに手を掛けた。男は藤村の手
首を掴んだ。力を入れているようにはみえないのに骨が軋みをあげた。
「誰か来るとは聞いてないぜ。帰りな」
藤村は男の目を見た。
「さっき、林から電話をもらったばかりだから、あんたは聞いてないんだろう。俺を門前払
いしたのが分かれば、後で困るのはあんただぜ」
男の手がわずかに緩んだ。その瞬間、藤村は手を振り解き、身体を捻りながら男の股間を
蹴り上げた。男が息をつまらせ、膝を床についた。無防備に曝された首筋に手刀を入れると、
男はゆっくりと床の上に伸びた。
男の身体を蹴り除け、ノブを掴みドアを押す。鍵は掛かっていなかった。
部屋の中にいた男達が一斉に藤村の方を向いた。四人。どれも藤村のよく知った顔だった。
「おや、藤村さん。ちょうどあなたを招待しようと思っていたところだったんですよ。余計
な手間が省けました」
口調はいつもと変わらなかったが、宮田の顔にはお馴染みの薄ら笑いは浮かんでいなかった。
その隣に立っている林も殺気立ち、気味の悪いほど青白い顔をしていた。袖をまくった彼の腕
に浮かぶ汗が、照明を受けてらてらと光っている。その汗の理由は藤村にもすぐに分かった。
壁際の椅子に座る加納の方へ向かった。宮田も林も、藤村を止めはしなかった。
「大丈夫か」
椅子の側に膝をついた藤村が声を掛けると、加納は俯かせた顔を少しだけ上げた。内出血で
顔が膨れ上がっている。切れた唇の端で、何か言った。何をしにきた、と聞こえたような気が
した。藤村はその姿勢のまま、加納の隣の椅子に座らされている男に目を移した。その男も藤
村をじっと見つめ返した。椅子に座らされた二人の男はどちらも後ろ手に縛られていた。
「加納君もしばらくは警戒していたみたいですが、今日、ようやくその男と会っているところ
を押さえましてね。いろいろ事情をうかがっていたわけですよ」宮田は手にした小型拳銃を弄
びながら続けた。「しかし、驚きました。現役の刑事さんとはね。――世も末、というやつで
すかね」
辰野が強い視線を宮田に向けた。宮田はそれに気付きもしないそぶりで続けた。
「おまけに藤村さんのお知り合いとはね」部屋の真ん中に設えられたカウンターに近づ
くと、酒の入ったグラスを傾けた。「さあ、どうしてこんなことをしたのか説明してもらえま
せんか、藤村さん」
藤村は立ち上がり、もう一度辰野の顔を見た。だが、そこからは何もうかがえなかった。林
がすっと近づいて来ると、手の甲で藤村の頬を打った。
「お前がこの刑事を使って、加納にデータを持ち出させていたんだろう。たいした野郎だぜ。
何も知らない振りをしてゼブラの取引に噛んできやがったくせに」
宮田がカウンターに肘をついたまま言った。
「あなたを信用してたんですがね。私の目が濁ってたようだ。警察を辞めても、あれこれ嗅ぎ
回る癖は抜けないようですね。――所詮、犬は死ぬまで犬だ」
「待てよ。さっきから言っているだろう。藤村は関係ない」
辰野が言った。林が辰野の前に立ち、鳩尾に靴先をねじ込んだ。
「どこまでしらばっくれるつもりだ。お前が自分で加納にコンタクトとれるわけないだろう。
藤村がお前に教えたんだろうが。加納を脅してデータを手に入れろと。で、お前は、手帳をち
らつかせながら、顧客データを加納に要求した。大方、素直に寄越せばお前は見逃してやると
でも奴に言ったんだろう」
林の脚に込める力が強くなるにつれて、辰野の顔が歪んだ。宮田が猫なで声で言った。
「まあ、もう一度その方の話を聞いてみようじゃないか。ええ?」
林は鼻で笑うと、辰野から離れた。辰野は息を整えてから話し始めた。
「覚醒剤のルートを調べている内に、例のインターネットのサイトが覚醒剤の売買に絡んでい
るという噂を聞いたんだ。そこからあの事務所を突き止めて、加納と接触することができた。
最初は顧客を含めて摘発するつもりでデータを手に入れたんだが……。欲が出て、あんなこと
をしちまったんだ」
「いいでしょう。では、脅迫の電話を掛けていた男は誰なんです? あなたの声じゃないよう
でしたがね」
宮田の言葉に、辰野は口を噤んだ。しばらくは誰も話さなかった。やがて、宮田が続けた。
「いい加減くだらない作り話はやめましょうや。辰野さん、あんたは刑事だ。我々もきわどい
商売をやってる関係上、刑事さんの知り合いがいると助かるんですよ。どうです、今までのこ
とは水に流しましょう。その代わり、我々と手を組みませんか」
「そんなことができるわけがないだろうが」
辰野が弱々しい声で応えた。
「何故? あなたがしていたことと我々がしていることにどれほどの差があるって言うんです
か。どうせ汚れている手だ。今更誰と組もうが気にすることはないでしょう」
辰野は押し黙った。宮田はグラスを拳銃に持ち替えた。
「ただ、加納君と藤村さんは許せないですね。私が一番嫌いなことは裏切られることだ。今、
どれだけ私の腹が煮えくり返っているか分かりますか」宮田の目は藤村に据えられていた。
「それに、ふたりにうろちょろされれば、辰野さんの目障りにもなる」
拳銃の銃口が上がり、藤村の胸の上に照準を合わせて止まった。
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