アズアドッグ
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開け放たれた扉の方からざわめきが聞こえくる。藤村は懐からライターを出し、火を点け
た。加納と辰野の姿がぼんやりと浮かび上がる。宮田と林は既に消えてしまっていた。
腕時計を炎にかざす。ここに着いてからわずか十五分しか経っていなかった。須賀見が春日
井に電話するにはまだ早すぎた。
ドアから懐中電灯の光が射し込んできた。藤村はライターを消し、かすかに見える人影に
目を凝らした。光は部屋の中を舐めるように照らしていき、最後に藤村の上で止まった。
「さっ、部屋を出るのよ」
みゆきの声だった。
藤村は辰野を自由にすると、加納に肩を貸し、部屋を出た。みゆきに導かれるまま、胡蝶
蘭へと繋がる扉をくぐる。明かりこそ灯っていたが、そこには誰もいなかった。だが、
テーブルの上に置き去りにされたグラスや皿が、ついいましがたまで客がいたことを物
語っていた。四人は足早に店を通り抜け外へ出た。
胡蝶蘭の駐車場。濃紺のボルボが停
まっていた。みゆきはロックを外すと、車に乗るよう、藤村達に目で促した。辰野と加納を
後部席に押し込んでから、藤村は助手席に収まった。車は一旦バックすると、タイヤを軋ま
せ発進した。
「手入れがあったわけじゃないんだな」
藤村の言葉にみゆきは頷いた。
「宮田達、裏口から慌てて出て行ったわ」
あざけるような響きがこもっていた。彼女が店の女の子を使って、警察が来たと思わせた
のだろう。
「何故、俺達を助けた? こんなことをすれば、宮田が君を放って置かないぜ」
彼女はアクセルを荒々しく踏み込んだ。特徴のあるエンジン音が車内に響く。
「あんなことをされてまで、言いなりになっているつもりはないわ。私はあいつの飼い猫
じゃないのよ」
ベッドに縛り付けられていた白い裸体。藤村は黙って煙草を抜き出すと、火を点けた。
続けざまに煙を吸い込む。ニコチンが緊張を緩めていく。
後部席で身体を動かす気配がした。
「猿芝居はよせよ」
加納がくぐもった声で言った。
「どういうことよ」
「姉貴が宮田を裏切るわけがないだろう。飼い猫じゃないだって? 笑わせるなよ」
フロントガラスの向こうに注がれているみゆきの視線が険しくなった。加納は続けた。
「姉貴は何があっても今の生活を捨てることなんてできやしない。自分でそう言っていた
だろうが」
「それじゃあ、あたしが何のためにあなた達を連れ出したと思ってるのよ」
「決まってるだろう。俺が一杯喰った手だ。どうせ、誰かがこの車の後を付けているんだ
ろう。宮田は俺達の仲間が他にもいると思っている。だから俺達を泳がしておいて、
油断したところで一網打尽ってわけだ。――二度も同じ手が通じるかってんだよ」
加納が運転席のシートを後ろから蹴りつけた。みゆきが唇を噛むのが藤村に見えた。
「……好きなように思ってなさい」
「当たり前だ。信用なんかできるかよ。実の姉を殺した男に喰わせてもらってる奴の言う
ことなんかを。さあ、車を停めろよ」
みゆきが藤村の顔を見た。藤村は黙って、携帯を取り出した。電話はすぐに繋がった。
「須賀見か。俺だ、藤村だ」
「リミット前だな。無事に終わったのか」
「ああ、どうにかな。で、悪いんだが、もうひとつ頼みがある」
「なんだ」
「足が必要なんだ」
「いいぜ」
「えらく簡単に答えるんだな。事情も聞かないのかい? 宮田達に追われていて、少々ま
ずいことになるかも知れないんだぜ」
「足がいると言ったのはあんただろ。くだらないことを言ってないで、どこに行ったらい
いのか、さっさと教えろよ」
藤村は道路の先に小さく見えるファミリーレストランの名前を告げた。
「分かった。十五分もあれば着けるだろう」
「悪いな。待っている」
電話を切ると、みゆきがため息をついた。
「あなたも私のことを信じていないのね」
藤村は近づいてきたファミリーレストランの駐車場に入るようみゆきに促した。彼女は
おとなしくそれに従った。車を停め、ヘッドライトを落とす。気まずい雰囲気が車内に拡
がった。
「店での騒動が君の仕業だったのはもうばれているだろう。この車でうろちょろするのは
まずい。目立ちすぎる」藤村は一旦言葉を切ってから続けた。「俺達は車を乗り換える。
君はマンションへは帰らずに金森のところへ行くんだ」
「金森さんのところへ? どうして」
「彼は今晩のうちに大阪へ向かう。君も連れていってもらうんだ。しばらくはあっちで
ほとぼりを冷ますといい」
彼女は曖昧に頷いた。加納が身を乗り出してきた。
「待てよ。姉貴を信じる気か。こいつが裏切ったら金森さんまで巻き添え喰うんだぜ」
藤村は応えなかった。みゆきも黙っていた。
不意に、それまで身動きもしなかった辰野が口を開いた。
「俺はここで降りる」
言うと、ドアを開き外に出た。藤村が後を追って車を降り、辰野を呼び止めた。
「待てよ。どうするつもりだ」
「俺は警官だぜ。あいつらにつけ回されても、自分でどうにかできる。――放って置い
てくれ」
今晩の出来事は辰野の誇りを深く傷つけていた。そのことに初めて藤村は思い至った。
「分かったよ。好きにしたらいい」
辰野が藤村に背中を向けたまま言った。
「藤村、お前、どこまで知っている」
藤村は新しい煙草を抜き出しくわえた。
「何も分かっちゃいないさ。ただ、お前が誰を助けようとしているのかは知っているつもりだ」
「藤村……、もう手出しするな。今晩を最後に全てを忘れろ。車を乗り換えたら、どこか
遠くへ行って、ここへは戻ってくるな。後は俺がうまくやる」
「馬鹿な。本当にひとりでそんなことができると思っているのか。宮田は、お前達を必ず追いつめ
る。お前とお前を操っている男をな。――一体、誰なんだ、お前の後ろにいるのは」
辰野は自嘲の笑いを漏らした。
「そこまで事情を知っているのなら分かるだろう。それを話すことはできないのが」
吐き出した煙が風に煽られ消えていく。藤村は声を落とした。
「子供は無事なのか」
辰野は肩を震わせた。
「分からないんだ。だが、今はそう信じるしかない」
吐き捨てるように言って歩き出した辰野の大きな後ろ姿が、駐車場からゆっくりと消えていった。
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