アズアドッグ

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 加納が身体を捻り、リアウインドウにかじりついた。
「黒のクラウンだ。分かるか」
 須賀見の言葉に、加納はうなり声で応えた。身体を元に戻し、藤村に噛みつく。
「だから言っただろう。あいつを放っておけばこうなると」
 藤村は加納を無視して、運転席に話しかけた。
「間違いないのか? あの車がつけてきているのは」
「なんとも言えんな。だが、さっきからぴったり後についていやがるのは確かだ」
 赤に変わりかけた信号を車は突っ切った。クラウンもついてくる。交差点にクラクションが響く。
「もう少し試してみるか」
 須賀見はそう言うと、アクセルを踏み込んだ。車線を右に左に変えながら、シーマは加速し ていった。クラウンが車群に埋もれていく。須賀見はウインカーを出さないまま、ハンドルを左に切った。 道路脇に立てられた青い看板がヘッドライトに一瞬浮かび上がる。――光岡工業団地。
 車は緩やかな坂を駆け上がっていった。カーブをいくつか抜けると、ひらけた場所に出た。道路の左右に は広い敷地を持った工場が建ち並んでいる。だが、どの建物の窓にも光はない。道路をすれ違う車さえもな かった。
「振り切ったか」
 須賀見がバックミラーを覗く。
「多分。でも、カーブが多かったからはっきりは分からない」
 加納の言葉に頷くと、須賀見は車のスピードを落とした。左手に門扉の開いている工場が見えた。
「念のために、ここでやり過ごそう」
 車を工場の中に乗り入れる。ひび割れたアスファルト。その隙間から伸び放題になっている雑草。どう やら、廃工場のようだった。須賀見は車を一番近い建物の裏手に停め、ヘッドライトを切った。藤村が窓 を降ろすと、冷たい夜気とともに鉄屑のにおい入り込んできた。
「くそっ、あいつめ。何が飼い猫じゃないだ」
 加納が吐き出す。いらだたしげに煙草を取り出すと火を点けた。
「おい、坊や。窓から火が見えないようにしろよ。万一ってことがある」
 加納は須賀見をちらっと見やってから、シートに深く身体を沈めた。何度か軽くふかしてから、す ぐに備え付けの灰皿で煙草を消す。その指先の荒々しい動きが不意に止まった。
「――金森さんだ。金森さんが危ない」
 携帯を取り出すとダイヤルを押し、耳に押し当てる。しばらくそうしていたが、やがて、あきらめると 接続を切った。
「畜生。あんたのせいだぞ。あんな奴を信じて金森さんが逃げ出そうとしていることを教えたりするから だ」
「まだ捕まったと決まったわけじゃない」
「決まっているさ。さあ、車を金森さんのところへやってくれ」
「今行って何になる。落ち着けよ」
 加納は身を乗り出し、藤村の胸ぐらを掴んだ。
「落ち着けだと。金森さんに何かあったら、お前を許さないぞ」
 加納の手首を須賀見が横から払い除けた。ふたりはしばらくにらみ合った。先に目を逸らしたのは加納 の方だった。 舌打ちを残し、シートに身体を投げる。須賀見は加納を見据えていた視線を助手席の方へと移した。
「放っておくのか、その金森という男を」
「今はな」
 須賀見はそれ以上は何も訊かなかった。加納も妙に静かだった。何か考え事を始めたようだった。 草むらの中で鳴く虫の音だけがわずかに聞こえるだけだった。
 五分ほどして須賀見がヘッドライトを点けた。車がゆっくり走り出す。
「今日は俺のところに泊まるといい」
 工場の角を曲がり門へ鼻先を向けた。その瞬間だった。横から強い光が射し込んできたかと思うと、 フロントガラスの向こうに黒い車体が立ちふさがった。ブレーキ。タイヤの軋み。藤村はつんのめり、 ダッシュボードに額を打ち付けた。
 顔を上げたときには、ウインドウ越しに銃口が突きつけられていた。その銃口が左右に振られ、車を降 りるよう、藤村を促した。藤村、加納、須賀見の順に車を降りた。藤村はクラウンの車内に視線を走らせた。 誰も残っていない。男はひとりだけだった。
「車のこっち側に一列に並ぶんだ」
 低い声での命令に、藤村は彼の方を見やった。四角張った贅肉のついていない顔。見覚えはなかった。 着ているものはサラリーマン風だが、盛り上がった筋肉と気怠げな雰囲気が、決して勤め人などではないこ とを物語っていた。
「車のルーフに手をつけ」
 藤村達は素直に男の言う通りにした。男はじわじわと車から遠ざかった。藤村の背筋に悪寒が走る。 奴は身体検査をする気などないらしい。どこかへ連れていくつもりがあれば、当然持ち物を確かめるは ずだった。身体検査をしないということは、つまり、ここで片を付けるということだ。
 シーマのルーフに載せた手がじっとりと汗ばむ。男より先に引き金を引くには、背中の銃までの距離はあ まりにも遠すぎた。

 
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