天使を見失った夜
1
「今、ちょっとモメてるんスよ。しばらく待ってもらえますか」
受付の前に立った俺を見た途端、ボーイが顔の前で手を合わせた。
「なんだよ、このくそ暑いのに。まさか風営の取り締まりじゃないだろうな」
「いや、そんなんじゃないんスけどね」彼は声をひそめた。「ちょっと、ヤバイ客
が来てるんスよ」
俺が黙って頬に人差し指を滑らせて見せると、ボーイは首を振った。
「まだ、その方がいいっスよ。ナシのつけ方もあるってもんです」
「じゃ、なんなんだよ」
彼は待合室の方へ頭を振った。
「よかったら、ご自分で確かめて下さいよ」
待合室の扉を開けると、マネージャーの声が耳に飛び込んできた。
「そやから、今日は彼女、休みや言うてますやんか」
俺の気配を感じてか、マネージャーが振り向いた。目が合うと、困ったような
笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。彼の前には男がひとり、ソファーに深々と身体を沈
めていた。彼は二人掛けのソファーを独り占めしている。俺がこの二年間で見たどんな
男よりも、彼は太っていた。二年前といえば、俺が得意先の成金社長に連れられて、横
綱がひとりも出ていない名古屋場所を朝から晩まで観せられた年だ。
俺はテーブルの上にあったスポーツ新聞を掴むと、その男の向かいのソファーに腰を
下ろした。足を組み、開いた新聞越しに耳を澄ませる。マネージャーのため息が聞こえ
た。
「ここに居座られても困るんやけどなあ。出直してくれへんかな」
「これ」
太った男特有のこもった声が応えた。何かをマネージャーに見せているようだった。
俺は新聞を下げて上目で様子をうかがった。男がフランクフルトのような指に挟んでい
るのは、ここの店の女の子が配るピンク色の名刺だった。
「そやから、それはあくまで出勤スケジュールや言うてますやんか。体調が悪うなれば
休みますがな、女の子かて」
名刺の裏にはカレンダーがついていて、その娘の出勤日にはラインマーカーがひいて
ある。どうやらこの男は目当ての女の子が出勤していないことで、しつこくクレームを
つけているようだった。
マネージャーが急に猫なで声になった。
「そや、今日、入ってきた娘がおるんや。どうや、試してみまへんか。エンジェル
ちゃんと同じくらいかわいい娘やで」
男は黙って首を振った。そのわずかな頭の動きにさえ、たるんだ頬肉はたぷたぷと揺
れた。だだっ子のようなその男の仕草を見て、マネージャーの背中が強張るのが分
かった。
「いい加減にしいや。あんたがここにおったら他のお客さんに迷惑やさかい言うてるん
やで」
マネージャーがちらとこちらに視線を送る。俺は同意を求められないよう、慌てて
新聞で彼の視線を遮った。
「こういうのを営業妨害いうんや。分かってんのか」
声がいつもの調子と変わってしまっている。そういえば、以前、店の女の子から、マ
ネージャーの素性を聞いたことがあった。何でも大阪の方で、でかい組の構成員だった
とか。これはひょっとすると、いつもくだらない駄洒落を連発しては、へらへらしてい
る彼の本領を拝見できるチャンスかもしれない。俺は期待に胸膨らませつ、成り行きを
見守った。
「体が重すぎて、自分の足で歩けへんのやったら、手を貸したろか、おい」
その言葉が終わらない内に、男がのっそりと立ち上がった。小柄なマネージャーより
頭ふたつ大きい。彼は肉の裂け目としか見えないほど細い目から、鋭い視線をマネージャー
に注いだ。妙に血色のいい唇がわずかに動いた。
「あん? なんやて、聞こえへんがな。言いたいことがあったらはっきり言いいな」
男はそれには答えず、マネジャーから視線を逸らし俺を一瞥した。何を考えているか
分からない気味の悪い目つきだった。彼は巨体を揺らし、マネージャーの前を横切ると
ドアを出て行った。
男の足音がだんだん小さくなるにつれて、マネージャーの肩から力が抜けていった。
「参るわ、ほんまに」
気の抜けた声を出し、さっきまで男が座っていたソファーにどっかりと腰を下ろす。
俺は手にしていた新聞をテーブルの上に放り投げた。
「マネージャーも怖い声をだすなあ。こっちがちびりそうになったよ」
「冗談なしやで、リュウさん。あのガキ、とち狂い出すんじゃないかと、内心びくびく
もんやったっちゅうに」
マネージャーは勤務中は御法度のはずの煙草に火を点けた。多分、本当に緊張してい
たのだろう。
「常連客なのかい、彼は?」
「通い始めて二三ヶ月いうとこやろか」
「ふうん……。しかし、エンジェルは人気者だな」
「そりゃ、うちのナンバーワンやさかいに。他の娘がいろいろオプションを付けても、
手と口だけのサービスのエンジェルに逆立ちしても勝てへん。あの娘は、何をし
たら男が喜ぶかを知りつくしとるんやな」
俺は頷いた。
「そういえば、あの男、さっき何て言ったんだい」
「いや、ほんまに聞こえへんかったんや」
俺は悪戯っぽく笑った。
「口の動きだと、殺すぞ、って言ったようにみえたけどな」
「堪忍してえな、リュウさん」
「冗談だよ」俺はあくびをひとつして立ち上がった。「さてと、じゃ、俺もマネー
ジャーに脅されない内に退散するかな」
彼はくわえていた煙草を慌てて揉み消すと、俺を手で制した。
「なんで帰るんや。今、来たとこやろ」
「だって、エンジェルは休みなんだろ。――それとも、俺にも新しい娘を勧める気か
い?」
「リュウさんがエンジェルちゃん一筋なのは承知してますやん。――さあ、彼女、お
待ちかねでっせ、早よう部屋に行ったってや」
ぼけっと突っ立っている俺を見て、マネージャーは苦笑いした。
「あの男はちょっと訳ありで、エンジェルちゃんだけは付けんことにしてるんやわ」
じゃっ、と手を挙げると、俺を残し、マネージャーはそそくさと部屋を出ていった。
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