天使を見失った夜
2
巻き毛の天使の絵が描かれたドアを押し開けると、ベッドに腰掛けていたエン
ジェルが、ヘッドホンを外して立ち上がった。彼女は笑みを浮かべて歩み寄ると、
俺の胸に顔を埋めた。手にぶら下げたままのヘッドホンからは、ブラックミュージックが流
れている。華奢な肩を抱きしめようとした瞬間、彼女はついと身体を離した。いつもながら
の心憎いタイミングだ。
「ねえ、今日の銀行強盗ってリュウさんじゃないの?」
彼女はベッドに戻るなり、小さく尖った顎を上げ、悪戯っぽく笑った。
「へっ? なんだいそりゃ」
「なんだ、知らないんだ」
彼女は俺の手を引っ張り自分の隣に座らせた。
「二億なんだって。誰も傷つけずにね。――二十代後半、身長百七十五、やせ形、や
や猫背。――てっきりリュウさんかと思っちゃった」
「おいおい、そんな背格好の奴はいくらでもいるぜ」
エンジェルは頬を膨らませた。
「リュウさん、もう忘れちゃったんでしょ。この前私と話したこと」
「ん? 何言ってんだよ。忘れるわけないじゃないか……」
そういや、二億円がどうとかいう話をしたことがあったっけ。俺は他の場所へ流れかけ
ていた血液を脳に総動員した。
「……一緒にカナダに行こうっていう話だよな。ふたりのどっちかが二億手に入れたら」
彼女の頬が緩んだ。
「覚えててくれたんだ。ありがと」
「でも、何でカナダなんだい?」
エンジェルは俺から目を逸らすと、生真面目な調子で言った。
「カナダには自由があるわ」
「自由? そんなものなら日本にも腐るほどあるじゃないか」
彼女は俺の顔に視線を戻し、頬を膨らませた。
「日本にはない自由っていうのもあるのよ」
「そんなものあるのかな。――しかし、どうでもいいけど、俺が銀行強盗すると本気で
思ったのかい?」
彼女はわざとらしく俺の頭からつま先まで視線を這わした。
「そうね、道端に五百円玉が落ちてても、人目を気にして拾えないタイプだもんね」
俺が舌打ちすると、彼女は俺の肩に小さな頭を凭れかからせた。
「怒らないの。リュウさんのそんなところがいいんじゃない。ねっ」
ラベンダーの香りが鼻先をかすめる。俺は今度は逃げられないように、素早く彼女
の肩に手を回した。そして、空いている方の手で、彼女の細い顎に手を添え上を向か
せる。淡いピンクのルージュを塗った唇が、俺を誘うように薄く開いた。そのわずか
な隙間を目指して顔を近づけたとき、彼女が不意に口を開いた。
「ねえ、誰かマネージャーと揉めてなかった?」
俺は不自然な格好に首をねじ曲げたまま動きを止めた。
「ああ、いたけど。えらく太った男だったな。――そういえば、君が目当てだったよ
うだ」
エンジェルはまたしても俺の手をすり抜けた。ベッドを離れ、部屋に備え付けてあ
る小さな冷蔵庫から、トマトジュースの缶をふたつ取り出した。プルトップを開け、俺に
差し出す。ちっ、しばらくはお預けということか。
「あのひと怖いのよ」
エンジェルは自分のジュースを一口飲んでから言った。俺は意外な思いで彼女の顔
を見た。今まで彼女が他の客の話をするのを聞いたことがなかったからだ。こういう
店では、女の子から他の客の悪口を聞かされるのはしょっちゅうだが、エンジェルだ
けは決してそうした話をしなかった。客受けがいいのは、そんなことも理由のひとつ
なのだろう。
「どんな風に怖いんだ。変なことしやがるのか」
彼女は頷いた。
「ナイフを持ってくるのよ、あの人」
エンジェルをナイフでいたぶる男の絵図が頭に浮かぶ。と、自分でも思いがけない
ほど急に頭に血が昇ってきた。その俺の顔を見て彼女は慌てて付け加えた。
「でも、そのナイフで私をどうにかするんじゃないのよ。勘違いしないでね」
「じゃあ、どうするんだよ、そのナイフを」
「最初にお店に来たときはね。ナイフを私に見せて、俺を刺してくれ、って言ったの
よ、あのひと。それで、私がそんなこと出来ませんって答えたら、じゃ、見てくれて
るだけでいいからって、自分を傷つけ始めたの。びっくりしちゃったわ」
さっき、立ち去り際に男が見せた粘着質な視線。なるほど、奴ならやりそうなこと
だ。
「それでマネージャーに言って、奴を近づけないようにしてもらってるんだな」
俺の言葉に彼女は首を振った。
「ううん、私が言ったわけじゃないの。私はあの人がそれで満足できるんならと
思って何度か付き合ったのよ。血が出るのは怖いし、後片づけも大変だったんだけど。
でも結局、あの人が待合室でナイフを持っているのをマネージャーが見つけてね。大
騒ぎになっちゃったのよ」
「なんだって? そんなことをする奴の相手をしたのか?」
彼女は顔を伏せて恥ずかしそうに言った。
「だって、自分でナイフを使うだけで、他には何もしないのよ。……本当だったら」
まるで、恋人に浮気を疑われて弁解しているような口振りだった。他の娘だったら
こんなセリフも空々しく聞こえるだけなのだけれど、彼女の口から出るとたまらなく
愛おしく感じる。惚れている弱みといわれればそれまでだが。
「しかし、マネージャーもマネージャーだな。そんな奴、もう店に入れなきゃいいの
に」
エンジェルは複雑な笑みを浮かべた。
「でもね、見ているだけで、他に何もしなくていいんだったら、そういうお客さんの
方がいいっていう女の子もいるのよ。あの人が私じゃない娘でもいいんだったら、店
としては一向に構わないっていうわけ」
「ちっ、マネージャーもあれで結構計算高いんだな」
俺はトマトジュースを飲み干し、ゴミ箱に放った。そのまま、ベッドに這い上がり、
彼女を後ろから抱きしめる。
「まだ、お話してるのに」
エンジェルが口を尖らす。
「もういいよ。あの男の話なんて」
「それがよくないのよ。……ねえ、お願いがあるの、リュウさんに」
俺は彼女の首筋に鼻を押しつけた。少し汗のにおいが混じった甘い香りが鼻腔に広
がる。俺は微妙に鼻の位置を動かしながら答えた。
「いいよ。エンジェルの頼みなら何でもOKさ」
「ねえ、真面目に聞いてよ、ねえったら……」
だが、俺が彼女の話を真面目に聞き始めたのは、それからきっちり一時間後のこと
だった。
3