天使を見失った夜



 彼女のマンションに着いたときには一時を過ぎていた。俺達はエレベーターに 乗って、彼女の部屋のある七階まで上がった。薄暗い通路を彼女の小ぶりなお尻 を追って行くと、それは角部屋のドアの前で止まった。ふと、見上げたネームプ レートには「円城満夫」と太い字で書いてあった。鍵を開けていた彼女が俺の視 線に気づき、くすりと笑った。
「心配しないで。男のひとと住んでるわけじゃないのよ。そうやって男性の名前 を出しておかないと、なにかと不用心だから」
 俺は半ば引きかけていた腰を立て直し、分かっているとばかりに頷いて見 せた。彼女が先に部屋へ入り、電気を点ける。と、その途端、電話のベルが鳴り 始めた。青ざめた顔で彼女が俺を振り返る。俺は彼女へ頷いてみせると、部屋を 横切り、受話器を取った。――何も聞こえない。雑音さえも聞こえてこない。一 分ほどそうしておいてから、俺は受話器を元に戻した。
「何も言わないでしょ。――いつも、こんな風なのよ」
 彼女はそう言うと、ソファーにバッグを置いて、キッチンへと向かった。
 俺は立ったまま、部屋の中を見まわした。小さなキッチンと部屋ふたつ。家賃 八万円というところか。思ったより質素な暮らしぶりだ。部屋の中はピンクを基 調に統一されている。その色に染まっていないのは、テレビぐらいのものだった。 テレビの上には、写真立てがところ狭しと並んでいた。俺は近づくと、一枚一枚 写真を見ていった。
 写真の半分には着飾ったエンジェルの姿が、残りの半分にはジーンズをはいた プライベートの彼女が写っていた。だが、どの写真にも共通しているのは、被写 体は彼女ひとりだけということだった。ちょっとほっとする。――いや、一枚だ けふたりの人物が写っている写真があった。俺はその写真を手に取った。
 エンジェルじゃない女の子と若い男。どこかの海を背景に、バイクにもたれ掛 かり、レンズを笑顔で見つめている。男の手は女の子の肩に回され、女の子の手 は男の腰に巻き付いている。きつい日差しに目を細めた男の顔は、エンジェルに 似ているような気がした。
「兄なの」彼女がアイスコーヒーをテーブルに置きながら、俺の背中に声 をかけた。「二年前に事故で死んだのよ」
「そうか、気の毒に」
 俺は写真を元に戻し、彼女と並んでソファーに座った。
「エンジェルの田舎は、海辺の町なのかい?」
「ええ、そうよ」彼女はその話はもうしたくないとでも言いたげにそっけなく応 えた。「ねえ、それより、どうしたらいいのかしら。あの電話」
 俺はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「そうだな。――まず、さっきの電話で気づいたのは、雑音が少ないってこと。 つまり、奴は携帯じゃなくて公衆電話でかけてるはずだ」
 俺の言葉に彼女は神妙な顔で頷いた。
「で、君はいつも明かりを点けた途端にベルが鳴るって言ったよね。ということ はこの部屋が見える場所に奴はいることになる。そこで教えてほしいんだけど、 ここが見える位置に公衆電話はあるかな?」
 彼女はしばらく天井を見上げて考えた。
「多分、二個所あるわ。マンションを出て左手に少し行ったところにコンビニが あって、その前にひとつ公衆電話があるの。もうひとつは、反対方向にしばらく 行った場所にあるわ。多分、あそこからでもここが見えるはずよ」
「よし、確かめてみよう」
 俺は立ち上がると、部屋のカーテンを引き開け、窓を開いた。彼女の言う とおり、コンビニの前にある公衆電話のボックスが見えた。ただ、ここから じゃ遠すぎて、中にひとがいても分かりそうにない。今度は反対方向に目を 転じる。道路脇に並ぶ自動販売機の間に、緑色の公衆電話があるのが確認で きた。こっちも、薄暗い場所なので、使っているひとがいるかどうかは分か るにしても、普通ならその人物の特定まではできそうになかった。ただ、今 晩の相手ばかりは見間違えようとしても見間違えようがない。
 俺は窓を閉めて、不安顔のエンジェルの側に戻った。
「電話の近くを俺がうろついていたんじゃ、向こうも警戒するだろうから、 今度電話がかかってきてから様子を見に行くようにするよ。君は電話を 取って、奴に話しかけてみてくれ。出来るだけ長い間、受話器を置かさない ようにするんだ。そうすれば俺が現場を押さえられるかもしれない。いい ね?」
 俺達の会話を聞いていたかのように、ベルが鳴り始めた。俺は窓に近づき 外を見た。コンビニの方はやはり人が入っているかどうか分からない。だが、 もうひとつの方の公衆電話の前に人影はなかった。俺は、しばらくしたら電 話に出るよう彼女に言い置くと、ドアを引き開け、部屋を飛び出した。