天使を見失った夜
5
俺はマンションのエントランスを飛び出すと、コンビニに向かって走った。
目当ての電話ボックスが近づく――誰かいる。俺は走るのを止めた。そこにはあいつとは似ても似つ
かないスリムな女の子の後ろ姿があった。俺は周りを見回しながらボックスへと歩いていった。俺がド
アの前で足を止めたとき、ちょうど女の子が受話器を置いて出てきた。
「君、この辺で、やたらでかい男を見掛けなかったかい?」
俺は声をかけてしまってから後悔した。俺の声に驚き、顔を上げたその娘の目には、うっすらと涙が
浮かんでいたからだ。きっと、恋人と電話でけんかしたところなのだろう。俺は、ごめんと言って彼女
に背を向けた。逸らした視線にコンビニの店内が映る。――そこに奴がいた。あの巨漢が、コンビニの中
で雑誌を引き裂かんばかりに広げて立ち読みしている。
俺は道路を渡りコンビニへ入った。奴は写真誌を食い入るように見ている。俺は奴の後ろに立つと、
手を伸ばし雑誌を取り上げた。奴がぼんやりした目で俺を見た。
「ちょっと付き合ってくれませんか」
男は何も言わず、おとなしく俺の後についてきた。コンビニを出て、横手にある駐車場へ向かう。停
めてあるRV車の陰に入ってから、だらだらとした足取りで近づいてくる奴を待つ。ここなら表通りか
ら見えないから好都合だ。
俺から少し距離を置いて奴が立ち止まる。空咳をひとつしてから俺は言った。
「エンジェルが脅えている。もう、彼女に付きまとうのは止めてくれないか」
エンジェルという言葉に男が反応した。探るような目つきで俺を見る。その視線が段々と焦点を結ん
でいく。店の待合室で俺に会ったことを、ようやく思い出したようだった。俺はできるだ
け優しい声で続けた。
「彼女に入れ込む気持ちは分かるけど、追い回すのはよくないぜ、なっ」
男が口の中で何か答えた。
「えっ、何だって?」
「……そんなひとは、知らない」
今度は聞き取れた。
「知らないってことはないだろう。あの店で指名してたんだろ、エンジェルを」
男は首を振った。そして、同じ言葉をもう一度呟く。
「分かったよ。そう言い張るんだったらそれでもいい。ただこれだけは言っておくよ。店に
行っても君は二度とエンジェルには会えないぜ」
男の中で何かのスイッチが入れ替わるのが分かった。それまでのおどおどした態度が消えて、周
りを圧するような異様な気配が漂い始めた。男が唇を舐めた。
「僕を彼女に会わせないようにしているのはお前か」
「……ああ、そうさ。君のような奴を彼女に会わせるわけにはいかないからな」
男の手がよれよれのスラックスのポケットに入った。――ナイフ。俺はすっかり忘れてしまっていた
自分を呪った。こいつ、ナイフを持ち歩いているんだった。
男がポケットから手を抜き出す。手首を外に振ると、ナイフの刃が飛び出した。さっきまでの亀さえ
捕まえられないような鈍重な雰囲気はすっかり消えている。腰を落として肘を軽く曲げて構える姿は、
ナイフを使い慣れていることをうかがわせた。
後ろはコンビニの壁、右手はブロック塀、左手はRV車。逃げ道はなかった。自分で自分を袋小路に
追い込むとは全く目出度い奴だ。
「いいか、落ち着けよ。こんなことをしても――」
「何で僕の邪魔をするんだ!」
甲高い声で叫び、男がすり足で一歩踏み出す。俺は一歩下がる。奴に隙はない。こっちが踏み込めば、
たちまち身体を引き裂かれる。じりじりと下がる内に、背中が壁に当
たった。いよいよ一か八か突っ込むしかない、そう腹をくくったとき、男の背後でヘッドライトが
灯った。奴が一瞬後ろを振り向く。俺はそのタイミングを逃さなかった。左足を踏み込み、右足で奴
の股間を思い切り蹴り上げる。うめきを漏らしながら巨体が前屈みになったところで、今度は顎を蹴
りつける。男は受け身も
取れずに仰向けにひっくり返った。後頭部をアスファルトに打ち付ける鈍い音がした。
俺は動かなくなった男に近づき顔をのぞき込んだ。半開きの瞼の下に白目が覗いている。太い指を
こじ開けて、右手に握ったままのナイフを奪い取ると、側溝に放り捨てた。カランと乾いた音がした。
ヘッドライトが消えた。自動車のドアが開き、女の子が降りてきた。さっき電話ボックスにいた娘
だった。俺は立ち上がって彼女に礼を言った。
「ありがとう、おかげで助かったよ」
「このひとがナイフを持っているのが見えたから……。大丈夫でしたか」
俺は頷くと、もう一度男の側にしゃがんだ。男のポケットから財布を抜き出し、中を改める。社員
証に免許証。俺はざっと目を通してから元に戻した。俺の様子を不安げに見ていた女の子が口を開い
た。
「どうしてこのひとと喧嘩をしてたんですか」
「喧嘩をしてた訳じゃないんだよ。説得に失敗しただけさ」
「説得?」
「そう。彼はある女の子をしつこく追い回しててね。いい加減にやめるように言った結果が、このざま
さ」
俺は男の頬を平手で叩いた。五度目でようやく気が付きうめき声を上げた。
「身分証明書のコピーを取らせてもらったよ。今度君の顔をみかけたらそれを使わせてもらうことにな
る。意味は分かるね」
男はふらつきながら立ち上がった。そのまま俺の顔さえ見ずに、よたよたと歩き出す。駐車場を出て
行くその後ろ姿にはさっき見せた猛々しさのかけらさえ感じられなかった。俺の横に立っていた女の子が、
ぽつりと言った。
「なんだか、かわいそう」
意外な言葉に、俺は彼女の横顔を見た。彼女は俺の視線に気が付き、顔を赤らめた。
「でも、しょうがないですよね。その女のひとにしたらとんでもない迷惑だもの」
俺は頷くと、彼女にもう一度礼を言った。そして、彼女の車が駐車場を出て行くのを見送ってから、
エンジェルのマンションへと戻った。
エレベーターを上がり、七階で降りる。俺の足音を聞きつけたのだろう、チャイムを鳴らす前に部
屋のドアが開いた。
「リュウさん。どうだった」
「話してきたよ。もう大丈夫だ」
エンジェルの顔が輝いた。
「ほんと? ありがとう。さっ、中に入って」
俺は首を振り、笑顔をつくった。
「いや、今日はやめておくよ。エンジェルとふたりきりになったら自分が何をするか責任持
てないしね」
エンジェルの口元から笑みが消えた。
「何かあったの?」
「何もありゃしない。俺がびしっと言ってやったら、奴はすごすごと引き上げて行ったよ」
エンジェルの肩を抱き寄せ、ドアの陰で彼女の耳たぶにキスをする。店でつけている香水と
は違う清々しい香りがした。
「じゃ、また店でな」
俺は彼女の身体を離し、廊下を引き返した。
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