天使を見失った夜




 俺はエンジンを切った車の中で、煙草をふかしていた。降ろした窓から風は入ってくるが、 それだけでは何の足しにもならないほど暑い。昨夜、あの男とやりあったコンビニの駐車場。 今、停まっているのは俺の車だけだった。
 剥がれかけた海外旅行のビラが、コンビニの窓で揺れている。その中にはカナダという文 字も見えた。――日本にはない自由、か――。腕時計を見る。もう、一時を過ぎていた。
 ヘッドライトが駐車場を照らした。俺は、シートに深く身体を沈め、光から逃れた。エンジ ンが止まり、車のドアが開いて、閉じた。足音が離れていくのを待って俺は身体を起こした。 その足音の主は、電話ボックスへと消えていった。ゆっくり五つ数えてから俺は 車を降りた。道路を渡り、そっとボックスに近づく。受話器を耳に当てた後ろ姿をもう一度確 認してから、俺はドアを引き開けた。慌てて振り向き、はっと息を吸った瞬間、そのひとの手 から受話器が滑り落ちた。俺はボックスに踏み入れ、ぶらぶらと揺れている受話器を拾い 上げた。
「ねえ、誰なの、ねえ」
 そこから聞こえているのはエンジェルの声だった。受話器をそっとフックに戻す。
「どこか涼しいところに行こう。今夜も熱帯夜らしいぜ」
 ボックスのガラスに背中をぴったり付けたまま顔を強張らせていた女の子は、あきらめたよ うにため息をひとつついた。

 俺達がたどり着いたファミレスでは、女子高生のグループと、中年女性の二人連れが声のでか さを競うようにして、おしゃべりを繰り広げていた。こんな夜中だというに、まったくこの街 はどうかしている。
 汗をかいたグラスからストローを引き抜き、俺はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「しかし、よく彼を見つけられたね。連絡を取り合っていた訳じゃないんだろ」
 グラスを置いて俺が言うと、彼女はテーブルに視線を落としたまま頷いた。
「この辺に住んでるって彼の友達から聞いたから、電話帳で調べてみたの」
「そうか。でも、どうして会いに行かなかったんだい」
 彼女は口ごもった。
「愚問だったな。今、彼がどんな生活を送っているのか知っているんだね」
 今度は、こっくりと頷く。
「じゃあ、電話をかけてどうするつもりだったんだい」
 彼女は今晩何度目かのため息を漏らした。
「今みたいな暮らしをやめて欲しいって言うつもりだったの。だって、私が初めて好きに なった男の人なんです。何も言わずに私の前から消えて、ようやく見つけたと思ったら、あ んなお店で働いているなんて……。とても耐えられなかったわ」
 彼女は初めて目の前のアイスティーに口をつけた。
「電話をかけるときはいつもはっきりそう言うつもりだったの。こんな暮らしはやめて、元 のようになって欲しいって。でも、いざ彼が電話に出ると声が出なくなって」彼女は目を上げて俺を見 た。「何度も電話したわ。でも、そうしてる内に段々とあきらめがついてきたんです。 だって、もう彼が決めてしまったことですものね。今更、私が言ってもどうなるものでもな いし」
「でも君は電話を続けた。何故だい」
 彼女は寂しげに笑った。
「電話をかけているのが私だと彼に気付いて欲しかったの。ひとこと私の名前を呼んでくれ さえすれば、と思って。そうすれば、きれいさっぱり彼を忘れられると思ったの。でも、昨 日あんなことがあって、もう電話はよそうって決めたわ。だって、他の人から見れば、あの 男のひとも私も同じように見えるんだろうなと思って。それって、あんまり寂しすぎるもの。 でも、馬鹿ね、ふと気が付いたら、今日も電話の前に立ってたわ」
「馬鹿なんてことはないさ」
「いいんです、そんなに気を使ってくれなくても。でも、あなたに見つかったおかげで、 やっとけじめがつけられる」彼女はバッグからキーホルダーを取り出し、その中からひと つのキーを外した。「彼が乗っていたバイクのスペア・キーです。お守り代わりにしてたん だけど――。彼に返してもらえますか」
 俺がキーを受け取ると、彼女はバッグを手に立ち上がった。
「彼、今はエンジェルっていう名前なのね」
「そう、エンジェルだ」
「私にとっても彼は天使だったわ。あんなに優しいひとにはきっと二度と会えない」
 俺は首を振った。
「そんなに悲観するもんじゃない。君の新しい天使はどこかで待っているさ。そう、例えば今、 目の前にいるかもしれない」
 彼女はくすりと笑うと頭をひとつ下げ、テーブルを離れた。俺はその背中に声をかけた。
「君も随分大人っぽくなったんだな。最初、見たときは気が付かなかったよ」
 振り向いた顔がきょとんとしている。
「彼は今も飾っているんだよ、君の写真を」
 大きく開いた瞳がうるみかける。それを隠すように無理に笑いを浮かべると、口の動きだけ でありがとうと彼女は言った。そして、何かを振り切るように勢い良くきびすを返し、店の外 へと消えていった。 


 
終章