天使を見失った夜
終章
「やあ、エンジェルちょっといいかな」
ドアの隙間から覗いた目が見開かれた。彼女は急いでチェーンを外すと、俺を招き入れた。
「どうしたの、リュウさん」
エンジェルはシャワーを浴びた後のようで、化粧もすっかり落としていた。ルージュの塗られて
いない唇の色が、却ってなまめかしい。俺は部屋の真ん中で彼女と向かい合った。
「預かりものを届けに来たよ」
彼女の手にバイクのキーを落とす。訝しげにそれを見つめていた彼女の顔が、やがて、つらそう
に変わっていった。
「そう……、あの男のひとじゃなくて、彼女だったのね。電話をかけていたのは」
「ああ、あいつが君のことをつけ回してたのは確かだけど、電話をしていたのは彼女だったんだよ」
「ちっとも気付かなかった」
彼女はキーから視線を上げ、テレビの上の写真立てに目をやった。そこでは、仲良く寄り添った
カップルが楽しげに笑っている。
「しかし、本名で電話帳に載せてるとはね。君も思いきったことをするな」
「両親と喧嘩したまま飛び出してきたのよ。今更、私から連絡を取るつもりはないけど、
もし何かあったときに、親が私のことを捜せるようにと思って。――なんだか未練がましいわよね」
俺は返事をせずに肩をすくめた。
「さっ、メッセンジャーボーイは帰るよ」
彼女は小さく首を傾げた。乾ききっていない髪が肩の上に拡がる。
「何も訊かないの」
「話したいことがあるんなら、聞かせてもらうよ」
エンジェルは俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「彼女と付き合っている間は、まだ自分のことがよく分かってなかったの。でも、段々、彼女を
恋愛の対象として見られなくなった。私の中で心と体のバランスがどんどん崩れていったわ。ど
うにも耐えられなくなって、家を出て、貯めていたお金でこの身体になったの」
「彼女は随分ショックを受けたようだよ。君が黙って姿を消したことで」
「そうね。女性にそんなことをしておいて、自分が女になる資格なんてないのかもしれない
わね」
突然窓の外が光った。それを合図にしたように、激しい雨音が弾け始めた。これで熱帯夜
も終わるだろう、窓を洗い始めた雨を見て俺は思った。
「君は天使のように優しいひとだった。――彼女はそう言っていたよ」
俺は窓から目を離し、彼女に笑いかけた。「じゃ、帰る」
彼女がぽつりと言った。
「ごめんね。騙してたわけじゃないのよ。どうしても言い出せなかったの」
「気にすることはない。天使には男か女かなんて関係ないだろ」
彼女が何か言いかけて、口を閉じた。そして、目を伏せると、ようやく聞こえるだけの声で言った。
「また会いに来てくれるの?」
「ああ」俺はおどけて答えた。「それで、早いとこ二億円つくって、ふたりでカナダに行こうぜ」
突然、彼女の平手が俺の頬を打った。
「思ってもいないことを言わないで」
唇が小さく震えていた。
俺は何も答えられなかった。立ちつくす俺達の間を、雨の音ばかりが満たしていった。稲妻が何度となく、
彼女の横顔を青白く照らした。それは今までに見た彼女のどの表情よりも美しかった。
やがて、彼女はゆっくり手を上げると、俺の頬に触れた。
「ごめんね。勝手なことばかり言って。全部私が悪いのに」彼女は足元に目を落とした。「今夜、
本当の天使をなくしたのは彼女じゃなかったみたい」
俺は頬に添えられた彼女の手をそっと引き離した。華奢な手が、行き場を無くして宙に浮く。
俺はそのまま何も言わずにきびすを返し、彼女を残して部屋を出た。
マンションのエレベーターを降りると、耳を聾すばかりの雨音に包まれた。俺は勢いをつけて
エントランスを飛び出した。しばらく走る内に、名前を呼ばれたような気がして立ち止まる。振
り仰いだエンジェルの部屋、明かりは消え、人影はなかった。
「今夜、本当の天使を見失ったのは俺だよ、エンジェル」
アスファルトを叩く雨音に急かされ、俺は再び闇の中へと走り出した。
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