境内月夜
隆一郎が自分のふくらはぎを思い切りひっぱたいた。
「蚊だよ。逃げちまった。こんなでっけえ奴」
隆一郎は親指と人差し指を開いてみせたが、啓太が乗ってこないので面白くなさそうに
黙り込んだ。
石灯籠の影に座り込んで、もう一時間は経つ。足下に投げ出した昆虫網のネットが月の
光を受けてほの白く輝いている。二人ともカブトムシを捕まえにいくと言って家を出てき
たのだ。
空を吹く風が雲をゆっくりと動かして、丸い月を見え隠れさせた。
「まだかなあ、狐」
「隆ちゃん、もう帰ったら」
「なんでさ」
「隆ちゃんは、お願いすることなんてないだろ」
隆一郎は少し口ごもってから、ふてくされたように言った。
「あるさ」
二人はそれきり口をつぐんだ。境内に敷き詰められた玉砂利が月の光を受けて輝き、泉
の水面のように見えた。木々は濃い緑色の葉から息を吹き出し、澄んだ夜気に豊かな香り
を添えている。時折吹く風が梢を揺らすと、眠っていた蝉が、じっ、と短い鳴き声を漏ら
した。
「俺、帰る」
啓太が不意に立ち上がった。隆一郎もつられて立ち上がる。
「いいのかい」
「白狐なんているわけないさ」
啓太は網と昆虫箱をひっつかむと、大股で歩き出した。靴の下で玉砂利がざっ、ざっと
鳴った。隆一郎は何か言いたそうにしながら、その後を追った。
流れる雲が月の光で玉砂利の上に様々な模様を描いていった。蝉が何度か不機嫌そうな
鳴き声を上げた。
隆一郎はひとり境内に戻ってきた。さっきまで啓太と一緒に居た石灯籠の元に腰を降ろ
し、白狐やーい、とひとりごちてみる。お前は、本当にいるのかい。本当に願いを叶えて
くれるのかい。でも、叶えてくれるとしても、ひとりにひとつっきりなんだよね。ああ、
今日はお父さんにひどく怒られるだろう。お母さんが死んでからはとても優しくなったん
だけど、こんなに遅くまで家に帰らなきゃ怒るに決まってる。でも、もう少し待ったら狐
が出てくるような気がするんだ。あと、もう少しだけ。
「あっ」
狛犬の影で何か白いものが動いた。隆一郎が目を凝らしていると、それは境内を横
切って飛ぶように駆けていった。太くしなやかなしっぽが月光に煌めく。隆一郎は慌てて
手を合わせ目を閉じた。
「啓ちゃんのお母さんが元気になりますように」
目を開けたときには、白いものの姿はなかった。隆一郎は立ち上がり、お尻を音高くは
たくと、弾むように境内を飛び出していった。
境内月夜。
蝉が短く、じっ、と鳴いた。
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