左筆

 

「春栄さん、あんたの絵には華がないんだよ」
 版元から使いに寄越された民次が、茶をすすりながら利いたような口を叩く。春栄は聞 き流しておいて、絵筆の先に神経を集める。三日間、郭に居着いて描き溜めた太夫の絵が 八枚。版元の重蔵が口を利いてくれたので郭の金はかからなかったが、それでも割のいい 仕事ではなかった。
 最後の一枚をようやく仕上げ、民次に渡した。
「明後日には色を訊きにくるから家にいて下さいよ。いつかみたいに行き先も言わずにぷ いと出てかれたんじゃこっちが困る」
 春栄は五月蠅いとでもいうように手を払い、民次はちいと舌打ちをして出ていった。
「華がないか。小僧上がりのくせに言いたいこと言いやがる」
 民次になど言われなくとも春栄自身が一番分かっていた。自分の描く美人絵には何かが 足りない。だから、歌川某などと比べると半分も売れやしないのだ。
 ひとの気配に春栄が振り向くと、表に女房が立っていた。逆光で表情が見えないが、な にか尋常でない様子だった。
「どうした」
 女房は応える代わりにすざましい勢いで畳に駆け上がった。
「あんた、郭に行ってたのかい」
 春栄はむっつりと黙り込む。女房には隅田川を描きに行くと言って留守にしていた。
「三日三晩女郎とまぐわい続けたって本当なんだね」
「誰がそんなことを言った」
「誰だっていいのよ。本当なのね」
 女房は勝手へ行くと出刃を持ちだし、再び春栄の前に立った。春栄が止める間もなく斬 りつけてくる。もみ合う内に、絵筆を踏み、畳に尻をついた春栄の右腕に、出刃が深々と 刺さった。
「ぐう」
 痛みよりも、利き腕を刺されたことに春栄は自制を失った。血を見て怯んだ女房から出 刃を取り上げると彼女の胸に突き立てた。切っ先が背中に抜けるほどの勢いだった。開け 放たれた表戸から様子を窺っていた向かいの家の老婆が、猫をつぶしたような悲鳴を上げ た。春栄は我に返った。

「どうだい、わたしの言った通りだったろう」
主人の重蔵の言葉に民次は卑屈に笑いながら頷いた。
「春栄の女房には気の毒しましたがね」
「ああ、わたしも春栄が右腕に怪我をしたと聞いたときには、しまったと思いましたよ。 ともあれ、これで春栄も一流絵師の仲間入りだ」
 店先には春栄の描いた美人画を求める客が、ひっきりなしに訪れている。その絵には春 栄左筆と落款が入り、どの絵も違う女を描いていながら、春栄の女房の面影が濃く漂って いた。

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