千萬堂本舗

 

 千萬堂は和菓子の老舗。京都では知らないものはない。ヤスとリキと俺は研修生として この春に採用された。朝六時から夜の十時まで働いて月のお手当は六万円。まあ、まとも な若者なら一週間も我慢できやしない。それでも俺達はこの一ヶ月間どうにかやってきた。
 俺達の一日は店に飾ってある旦那さんの写真に一礼することから始まる。写真の中の旦 那さんはやたらと恰幅の良い女性と並んで機嫌良く笑っている。多分馴染み客だろうその 女性を、俺達は大福マンと名付けていた。千萬堂の守り神、大福マン。
「お早う。いつも有り難うね」
「お嬢さん、お早うございます。気を付けて行ってらっしゃい」
 店の前で水を打っていた俺の横をセーラー服姿の実奈子さんがすり抜けていった。とろ けるような笑顔というのは、ああいうのをいうのだろう。
「香水、変わってたぜ」
 俺が小声で言うと、ヤスが口を尖らせた。
「馬鹿、実奈子さんが香水なんかつけるもんか。リンスを変えたんだよ、きっと」
 リキが首を振る。
「分かっちゃいねえな、お前達。女の子っていうのはその日によって身体の匂いが変わる んだよ」
 リキにそう言われると俺とヤスは黙り込むしかない。俺達の中じゃ、リキだけが女を 知っている。もっとも自己申告によればだが。
「さあ、じゃあ未来の俺の店の掃除でも始めっか」
「馬鹿野郎、俺の店だ」
 ここの旦那さんには息子がいない。将来は一人娘の実奈子さんが婿を取り、この店を継 ぐことになる。精進すればやがて実奈子さんと結婚して、千萬堂の主人となることができ る。俺達はそう信じて毎日の修行に耐えていた。
「おい、いつまでちんたらやってんだ。掃除終わったのか」
 兄弟子の健さんがわざと兄貴風を吹かしながら奥から出てきた。リキが軽口を叩く。
「あにさん、実奈子さんって最高っすよねえ」
 健さんは急に真顔になる。
「変な気を起こすなよ。旦那さんが預かってらっしゃる大事な娘さんだ」
「預かってる?」
 俺達は一斉に裏声で聞き直した。
 健さんが頷く。
「旦那さんのお兄さんの娘さんだ。京都の高校に通う間、旦那さんが預かってるんだ。知 らなかったのかお前ら?」
 俺達は三人そろって馬鹿みたいに口を開いていた。やがて、気を取り直したリキが勢い 込んで言った。
「だって、旦那さんには一人娘がいるって聞きましたよ」
「ああ、今は東京の料理学校に行ってるんだ。ほら、店に写真が飾ってあるだろう」
 大福マン。
 俺達はその夜、千萬堂本舗から京の暗闇へと逐電した。

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