ヴォイス
「お早う、あなた」
リビングに足を踏み入れた男は、その声に身体を凍り付かせた。だが、すぐに“ヴォイス”
の声だと気付き、小さなしみが浮き始めた手の握りを解いた。
「ねえ、気持ちの良い朝ね。太陽が見えたのは三日ぶりかしら」
声はキッチンの中から聞こえていた。男は少し緊張しながら、その方へ喋りかけた。
「ああ、そうだ。三日ぶりだ」
彼女の死から今日で一年になる。
今聞こえている彼女の声は、合成音声に過ぎない。三十年間この家で彼女が話した言葉か
ら応答パターンを解析し、あたかも彼女がそこにいるかのように会話できるのが、この
“ヴォイス”というシステムだった。“ヴォイス”は情報端末やコントロール・システムと
も連動していて、様々な家事をこなすことさえできた。
「昨日のボールゲームはどうだったんだろう」
ソファーに腰を下ろして呟いた男の言葉に、システムが反応した。
「あなたのひいきのチームが勝ったわ。新しいオフェンスの人気は上々よ」
この一年間、システムを使う気になれなかった。彼女を冒涜するような気がしたから
だった。だが、寂しさと一年という区切りが、昨夜、彼にスイッチを入れさせた。
「試合を録画しておいたわ」
リモコンの操作音がしてスクリーンに映像が浮かび上がる。――そう、いつもこんな感じ
だった。黙っていても、彼女は彼の望むことをすべてうまくやってくれた。
彼等はボールゲームを見ながら、惑星の裏側で起きている局地戦のことや、新しいエア
カーの話をした。彼女は――まるで変わらなかった。本物と。何を問いかけても、彼女なら
そう答えると思う通りの言葉が返ってきた。ときおり冗談も交えながら。
そう、こんな生活がいつまでも続くと思っていたのだ。つい、一年前までは。
「どうかしたの、あなた」
ふと、黙り込んだ彼を訝る声が響いた。
「ああ、ようやく分かったことがあるんだ」彼はソファーの上で背筋を伸ばし、姿の見えな
い妻の方へ顔を向けた。「――愛してた。お前を。とても」
ボールゲームを解説する興奮した声だけが部屋に流れ続けた。
やがて、小さな警告音の後、今までとは違う低い合成音声が申し訳なさそうな口調で応えた。
「ただいまの会話に呼応する応答パターンを確認できませんでした。なお、新たにパターンを
追加する場合は……」
「悪かった。もういい」
男はぐったりとソファーに身体を沈め、もう一度小さく呟いた。
「悪かった……」
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