風船とともに生きた私の青春



                                        みどりのうさぎさん



中学、高校時代と洋楽一辺倒で過ごしていた私は、高校卒業後、大阪の会社に就職しました。そこで同期入社のE子から教えられたもの、それが「フォーク」でした。
彼女が弾くギターに惹きこまれた私は、このあと、たくさんの歌に出会い、たくさんのフォークシンガーに出会うことになるのです。

ある時E子の部屋から聞こえてきたメロディに、思わず引き込まれてしまった私は、その瞬間から虜に。
聞こえてきたその歌声は、声質的には、少し細く、でも軽やかで、ビブラートのかかった、おだやかな男性の声と、少し低めで、さっぱりとした、女性の声、そして、やさしい、やさしいメロディ…。
そう、西岡さんと、ふうこさんだったのです。五つの赤い風船との出会いでした。

その頃はもう関西フォークも全盛期を過ぎていたのではないでしょうか。だから遅すぎた発見でした。それでも、風船の歌本や、写真本や、もちろんレコードや、又当時の、プガジャ(プレイガイドジャーナル)を買い、集め、東奔西走して回りました。
やっと、風船に出会えたわけです。


<風船と出会ってから VOL.1>


みなさんも、同じような経験がおありだと思いますが、風船と出会ってからの私は、彼らの、スケジュールを調べ、あっちの会館こちらのホール、今週は梅田、来週は難波、と仕事の終わるのを待って、会場まで走って行ったものです。
MBSで深夜放送チャチャヤンこと、チャチャヤングが始まったのが、’70.7月でした。火曜日が、西岡たかしさん、水曜日が、加川良さんと金森こうすけさんでした。
会社勤めの私には、深夜放送をきくのは、とても辛かったのですが、聞かないわけにはまいりません。良さんも、こうすけさんも、その頃には、とっても大好きな唄うたいでしたから、せっせとハガキを書き、眠たい目をこすりながら頑張って聴いておりました。

ある時、西岡さんが、

“え〜っと、今日もたくさんハガキが来てますが…
生駒のGreenちゃん(私の事です)この人も好きですなァ〜いつもいつも、ハガキありがとう”

って言ってくださったのです。もう、うれしくてうれしくて天にも昇る気持ちでした。

おばかな私です。わたしは、ふうせんや、西岡さんの事充分知っているけれど、彼らもまた私の事を知っているように錯覚してしまったのです。笑ってやってください。
それは、ふうこさんのお誕生日に、(フェスティバルホールだったと思いますが)コンサートがありまして、終わったあと、プレゼントを持って楽屋までいっちゃったのです。
ドアをあけたら、スタッフの人がいたので、
“これ、ふうこさんに、あげてください。お誕生日プレゼントです”
っていって渡したら、そのまま“はい!”といいながら、すぐに渡してくれたのですが、その場に突っ立ってた私の耳に入ってきたふうこさんの言葉は、

“生駒のGreenちゃん?そんなのしらないよ!”…

うなだれたまま、肩を落として、寮まで帰りました。


<風船と出会ってから VOL.2>


ふうこさんに、“しらない!”と言われた私でしたが(当たり前ですよね)、滅多なことでは、くじけないのが、私の良いところです。せっせ、せっせとハガキを書いて、毎日レコードを聞いて、コード付きの歌本見ながらギターを弾いていました。
ある時、心斎橋ヤマハの、3階だか4階だかの小ホールで西岡さんの単独ミニコンサートが、あった時のことです。本当に、少人数でした。お客さんは、車座にすわり、西岡さんは、パイプ椅子(だったと思います。)に腰かけて歌ったのです。
もちろんわたしは、一番前に、陣取りまして、必死で、見、聴き、そして、笑いました。でも、西岡さんと、時々目があうのですよ。
すると、恥ずかしくて、恥ずかしくてパッと目をそらしたり、違う方を見たり…。
本当は“こんにちは、生駒のグリーンちゃんです!”と言いたいのに言えなかった!。
昔むかしの、若かりし頃の私でした。

この頃、恐ろしいくらいハードスケジュールで、日本全国回ってらっしゃったようで、当時の様子をつづった年表があるのですが、見ただけで、疲れちゃう位、すごいものです。
後から思ったのですが、この頃から、解散に向けて、突っ走り始めた感のある’71の、ふうせんでした。


<ふうせんの見納めです>


私の青春時代を語るとき、“五つの赤い風船”や、西岡たかしさんなしでは話せない、あの懐かしい若かった日
あのほろ苦い青春の日々。

深夜放送のハガキの事、YAMAHAでのミニコンサートの事、ふうこさんのプレゼントの事、ほかにもルナホール、民音のホール、京都での大集会、ホントいっぱい行きました。ずっと、ずっと続いていくと思っていたのに…、
ある日、突然舞い込んだショッキングニュース、そして、解散の、見納めコンサート。

仕事を早引けして、向かったフェスティバルホール。
会場の入り口で渡された、見納めコンサート用の、年表。風船の足跡が、紙いっぱいに、かいてありました。その前に発売されたLPレコードの中で、西岡さんは、

「五つの赤い風船というグループだけは、解散はしないでおこうって決めました」

と言う言葉を残しているのです。だから、悔しくて、悲しくて、残念で、なんで?どうして?って叫びたい気持ちでいっぱいでした。
私が、どんなに、いややって言ったところで、どうなるものでもないのに、何も変わる事はないのに、何かしなきゃいられないような、そんな思いでした。そして、この思いを、どうしても伝えたいと考えたのです。
コンサートの間中ずっと考えていたような気がします。

ふうせん と共に生きてきた私の事。
一方通行だったけど、まるで、仲間の一人であるような思いでいた事、アルバムの中で「解散はしないでおこうって決めました。」の言葉を堅く信じていた事、これからは、もう聞く事ができなくなってしまう、五つの赤い風船としての西岡さんの感性を、どんなに悲しんでいるかと言う事、残念で残念でしかたないって思っている事、等など。
気が付くと、いろんなことを年表の裏に書き連ねていました。

それから、あの「遠い世界に」 が、アンコールになってやっと歌われたのも、納得がいきませんでした。名曲じゃないですか。アルバムの中で“いつか、国歌のように、歌われればいいな” といったほどの代表作です。
なのに、オープニングにも、エンディングにも歌われなくて、エ〜ッ!って思っていたら、やっとアンコールで披露という、なんか、綺麗過ぎる、作られた感のあるコンサートでした。
その事も含めて一気にいっぱい、書き連ねました。
気がつくと、会場は、ほとんど人が、残っていなかったように思います。

わたしは、その書きこみをした年表をもって、又々楽屋まで行きました。係りの人はいなかったように思います。誰に咎められる事無く控え室までいけましたから。
ドアをあけて、そこにいた人に手渡すと、一目散に出口に向かって走り出しました。今考えるとストーカーですよね。純粋だったけれど、一方的な思い込みで、アブナイかもしれない...

年表は、二枚もらったので、今、手元に一枚残っています。懐かしい、私の宝物のひとつです。
その後ふうせんに鍵をかけ、心の奥にしまいこんでしまいました。


<その後のふうせん>


ふうせんの解散も、見納めコンサートも、納得の行かないまま、心の奥にしまいこんだ私でしたが、それから十年くらい経ったある日、有線からとても心地よい曲が流れてきました。歌っている人も朴訥ないい感じで、曲はというと、なんか、懐かしい人に出会ったような気がして
“あっこの曲好き!”
って思わず聞き入ってしまいました。
すぐに、有線に電話しました。“今かかった曲何と言う曲で、だれが歌っているのでしょうか?” って。帰ってきた返事は、
「笑福亭つるべさんの、“うろこ雲の絵”と言う曲です。」

あくる日すぐに、レコード屋さんに行った私は、再び感激しました。なんと、西岡さんの作った曲じゃあないですか!

私は自分の中に、「揺るがない好み」というものがあって、その一つに、西岡たかしサウンドなるものが、存在するということを、この時はっきりと、認識したのです。

ふうせんの曲を聴くと 若かった当時の事が思い出されます。思い出は色褪せて古くなってしまったけれど、西岡さんのサウンドが未だに健在で、そしてなによりご本人がお元気で活動されている事がとても嬉しいですね。

そしてたくさんのファンの方たちが大きな力となって支えていらっしゃる事を知り、安心してこれからもずっとファンであり続けられるような気がしています。


 プロフィールへ戻る

HOME
風船ランドトップへ