1 五月のはじめの月曜日。シャツの袖を軽く捲りながら、まだ目覚めていない街を抜けて大学へ行く。基礎教育棟の六階にある解剖学教室まではエレヴェーターで上がり、教室の廊下のロッカーから白衣と実習キットを取り出し、身支度を整えて教室に入っていく。 ホルマリン臭というのか、独特の匂いにもすっかり慣れはじめているが、休みを挟んだあとは少し辛い。僕のグループが担当している老婆の遺体は教室の中頃にある。そこにはもうグループ全員揃っていた。何となく挨拶するものの、会話は成立しない。 実習は何とか日没までに終わった。僕は仕上がった筋組織のスケッチを教官に手渡し、手洗い場で手を洗った。白衣を着たまま一人で廊下を歩いていると、不意に背後から声をかけられた。 「あのう、病棟へはどちらに行けばいいんですか?」 振り返るとそこに女がいた。年齢不詳な顔だちと長い髪が不思議に魅力的だった。 「ここは大学構内だから、いったん外に出ないと病院の方には行けませんよ。そこのエレヴェーターに乗って外に出て、右側に歩いていくと大学の研究棟があるので、そこを左に曲がって二番目のドアを……」 自分でも言っているうちによく判らなくなってしまい、仕方なく女について院内まで送ることにした。面会なら時間外だし、入院患者が大学構内に入ってきてしまうとは考えづらい。僕はなるべく何も考えないようにして女を先導して歩いた。この時間にもなると病院の正面玄関は閉まっているから、夜間関係者入口から入らなくてはならない。 「先生なんですか?」 それぞれの診療科への道先案内が出た辺りで女が口を開いた。 「いえ、学生です。どちらの科に行かれるんですか?」 僕の言葉を遮るように、 「どうもありがとうございました」 軽く微笑んで、すっと消えていった。奇妙なほどひそやかな気配が僕の背中に漂い続けていた。 ○ 実習を終えて帰ろうとした途端、目の前にこの前病棟まで案内した女が立っていた。 「こんにちは」 女は澄みきった笑顔でそう言うと、僕に近づいてくる。 「この前のお礼がしたいの。今度の土曜日の朝十一時にT競技場で待ってるわ。絶対に来て」 僕は約束を守ってしまった。あの蠱惑的な雰囲気に呑み込まれてしまったせいかもしれない。 十一時を五分ほど過ぎた頃そこに着いたものの、女の姿はなかった。周りを見回してはみるものの、いるのは男たちばかりだった。
みな、A学院高校フットボールクラブ、を意味するロゴの入ったジャンパーを着ていることからもして、高校サッカーの試合が行われることは確かなようだ。 途方に暮れてベンチに座り、キックオフの声を聞きながら煙草に火を付けた途端、女が現れた。赤とブルーのチェックのスカーフがすらっとした長い首を覆い隠しているのが惜しいように思えた。 「白衣を脱ぐとずいぶん若返るのね」 「ご挨拶だな」 「再会できてとても嬉しいわ」 ね、あなたの自己紹介して。 どうして一方的に問い詰められなければならないのか判らなかったけど、僕は思いついたことを思いついたまま話してみることにした。 「トウジョウミズキ、二十歳。大学二年。趣味は音楽と映画と読書とサッカー評論」 「ミズキってどういう字?」 「瑞々しいに樹木の樹」 「東條瑞樹、ね。きれいな名前」 彼女は軽く握った拳で膝をトンと打ち、柔らかく微笑んだ。どこか気だるそうな目や紅潮した頬、血の流れをそのまま感じさせるような赤い唇がとても魅力的だった。 「あなたみたいな人ってはじめて見たわ。身体から凄くいい匂いのコロンが香ってるみたい。凄くもてるでしょう?」 「そうなのかな?」 「判ってるくせに」 ところで君は一体何してる人?
僕は足を組み直し、そう訊ねた。 「何者だと思う?」 「英会話教材や壷を売りつける人ではないと思うけど。まあその雰囲気からして、援交女子高生でもなさそうだしね。見当もつかないよ」 彼女は軽やかな声で笑いながらグレーのミニスカートの裾を引っ張る。ブルーのプラスティックの安普請なイスが、彼女の動きに合わせてキキキと耳障りな音を立てる。 「私も学生。今年大学に入ったばかり」 彼女は白金にある女子大の名前を挙げた。 「お嬢さまなんだ」 「誉め言葉かしら」 「さあ、どちらかな」 「あなたって本当に二十歳なの?」 「何で?」 「とてもそう見えないわ」 「老けてる?」 「そうじゃなくて、老成化してるの。大人より大人っぽいわ」 そう見せかけてるだけだよ、そう言おうかとも思ったけれど、やめた。そんな事情を他人に話したところで何の共感を得られるというのだろう? 「ね、あなたはどうしてあの大学に入ったの?」 彼女はふと思いついたように訊ねた。 「学費が安いから」 「それだけであの大学に入れるとは思えないけど」 「周り見渡してみると、賢い奴なんてめったにいないけどね。勘違いした馬鹿ばっかり。つまんない大学だよ。大学にはあんまり友達いないし。遊ぶのはこっちに出てきてる高校の頃の友達とか」 「サークルはやってないの?」 「大学入ったばっかりの頃、一週間ぐらいジャズ研にいたことがあるけど、妙に浮かれた奴と一緒にいるのにウンザリしてやめた。学部進んでこっちに来ても、ぱっとしなくてさ。でもまあ音楽って別段仲間を必要とするものでもないから」 「淋しくないの?」 「人と群れないと生きていけないような人間ではないと思ってるから」 彼女は口元だけで笑い、髪に指を入れて軽く流し、音楽好きなの?
と訊ねた。 「身体の九十パーセントは音楽できてるんじゃないかってぐらいね」 「どんな音楽が好き?」 「一言では言えないけど、ジャンルとしては、ソウルミュージックとか、オールディーズや昔のジャズも聴くし、クラシックも聴く。とにかく自分の感性に訴えかけてくる音楽を聴いてる」 カーティス・メイフィールド、スティーヴィ・ワンダー、ランディ・ニューマン、スティーリー・ダン……僕は決壊した堤防みたいに溢れだす言葉を勢いに任せて吐きつづけた。彼女は一つ一つ嬉しそうに頷きながら聞いていた。女の子にこんなにも込み入った音楽の話をするのは初めてだったし、理解してくれたのも彼女が初めてだった。 「マリファナもクスリも、僕には必要ないなって思うよ。音楽さえあればハイになれるからさ」 「神さまに感謝しなくちゃ」 「音楽の神様にね」 僕らは笑い合い、見つめ合った。彼女の肌は午前十一時の陽に透けそうなほど白く、ぱっちりした大きな瞳はどこまでも深く澄んでいる。肩を覆う髪は風に吹かれるたび所在なさげに揺れる。身体中から柔らかいエロティシズムが溢れている。 「学校ではどんなことしてるの?」 「解剖学とか、その辺の勉強」 「死体を解剖するのって、やっぱり気持ち悪い?
それともそういうこと、好きだったりする?」 「慣れれば大したことないと思うけど、朝九時から夜十一時まで立ちっぱなしとか、ホルマリンで髪や肌がバサバサになるっていう方がよっぽど問題だと思うけど。僕らの年頃で麻雀やる奴がいないのと一緒で、解剖なんか好きな奴いないよ。いたとしてもよっぽどのもの好きじゃな
いかな。みんな、解剖なんか早く片づけて講義中心の生活に戻りたいって言ってる。実習って講義と違って絶対にサボれないしね」 何だかうまく想像できないわ、彼女は小さく笑った。五月晴れの土曜日にかわいい女の子とする話じゃない。大学を離れたら医学のことは一切忘れようとしているのに、どうも上手くいかない。 僕にとっては何てこともない日常でも、彼女にとっては疑う余地もない非現実なのだ。死者の肉体を切り開き、ピンセットで摘まむ。これらのどこにシンパシーを感じればいいのだろう? フィルターギリギリになった煙草を足元に落とし、靴の踵で踏み潰して火を消す。煙草を吸う暇もないほど、僕は彼女との会話に没入していた。 「こんなに突っ込んだ自己紹介は初めてだよ。いつもはフリーターとか言ってお茶を濁してる」 「あなたって面白い人ね」 「・・・そう言えばまだ君の名前を訊いてなかった」 長い沈黙の後、彼女は静かな声で呟いた。 「つまらない名前よ。口にしたくないくらい。ね、私に名前をつけて」 彼女が発した言葉の意味がよく判らなかった。 ナマエヲツケテ? 「何でもいいわ。私を見て適当に付けてみて」 僕は少し考えるふりをして今日の日にちを訊ねた。 「五月十八日だけど、それがどう関係あるの?」 「五月……サツキ」 「サツキ?」 「君は五月の匂いがするような気がする。風とか、夏草の匂いとか」 彼女は微笑みを洩らし、賢しそうな目をなぜか少し曇らせて足元の小石を蹴り上げた。そして思いついたというように、僕の人差し指と中指の間からこぼれ落ちていく灰に視線を向ける。 「私も吸いたい」 「吸ったことないんだろ?
やめとけよ、噎せるだけだよ」 「前から吸ってみたいと思ってたの」 「女の子は吸わないほうがいい」 「女の子が吸うとみっともない?」 「そうじゃなくて、タバコなんて吸ってたら肌が汚くなるし、将来母親になる人は吸わない方がいい」 「私、子供なんて産めないから」 コドモナンテウメナイカラ?
産まない、ではなく産めない、と。 「ね、ミズキって背高いよね。何センチあるの?」 「百八十四。……さっきから人に質問ばかりしてるけど、何かの役に立つの?」 「あなたのこと知りたいの」 「もっと他に考えることはあるんじゃないの?
見ず知らずの男のことなんかよりさ」 「考えることなんてもう何もない。私が知りたいのはあなたのことだけなの」 「そうだな。今晩飲みに行って教えてあげるよ。ひとつひとつ」 「そんなこと全然考えてないくせに」 彼女は心底おかしそうに笑い、僕の肩にしなだれかかってくる。ささやかな重みと薄いブルゾンを通して伝わってくる少し低い体温が静かに僕の皮膚に溶け込んでいく。 「身体、鍛えてたりする?」 「高校のとき、サッカーを少し。でもなんだか虚しくなって、ある日何となくやめた。それ以来、一度もボールを蹴ってない」 「スポーツってあるレヴェルを越えたら無意味だと思うわ。スポーツだけじゃなくて、どんなものでもあるラインを越えたら意味を失うの。みんな、意味を失うことを恐れてるのよ」 彼女は一体誰なんだろう?
僕はあまりにも静かすぎる彼女の声に心を持っていかれそうになっていた。この声で「死ね」と言われたら僕は死を選ぶかもしれない。そういう種類の吸引力だった。 しばらく沈黙が続き、我に帰った僕はようやく言葉を取り戻した。 「どうしてうちの大学に用事があったの?」 そのとき一際大きく歓声が上がる。視線をグラウンドに戻すと、A学院が先制点をシュートしたところだった。隣の彼女も僅かながらの観衆のアクションにつられて席から立ちあがり、大声を張りあげて何か叫んだ。その言葉が何なのか、僕にはよく判らなかった。
本ページの転載は固く禁じます
■ Home