北寺塔 蘇州の人民路を北上すると北寺塔が見えてくる。 北寺塔は1700年以前前の三国時代に東呉の孫権が母親を記念して
建てたもので、当時は「報恩寺塔」と呼ばれていた。 この北寺塔の頂きに「青銅製の瓢箪ひょうたん」がのっており、 重量は2700kgもあると言う。
この瓢箪には言い伝えがあり、親孝行の孫権は建設にあたり、 諸葛亮(孔明)を招いて知恵をかりた。当時、諸葛亮は劉備の方に 心を傾けていたので孫権には力を貸そうという気はなかったし、 それどころか、孫権に難題を出し、困らせようと企んだのだった。
難題とは、塔は九重塔に、各階に回廊とそりびさしを造り、塔の上に 「塔殺」を立てなければいけないと言ものだった。 「塔殺」とは青銅製の鋳造製瓢箪で塔を鎮めるものである。 また諸葛亮は瓢箪の台座のサイズと重さも自分で定めた。 孫権は手伝ってもらおうと諸葛亮に相談したのだが、かえって面倒 なことになってしまった。しかし、諸葛亮を招き、「報恩寺塔」を 建てる噂も広まったので彼の指示どおり進めざるおえなくなっていた。 仕方なく、諸葛亮の指示どおりに造ることを決心したのだった。
孫権は鋳剣の名人の子孫で腕のいい「欧春子」に用件を切り出し、
欧春子は諸葛亮にからかわれてたまるものかと仕事を引き受けた。
彼は各地から千人を越す職人を集め、練兵場に数多くの釜を設け 二十の釜を一堂とし、あわせて十二堂つくり周りに配置した。
その中心に高台を設け、鋳造型をその中に設置した。準備がすべて整い、欧春子の合図で次々に十二堂の銅漿は一滴残らず 注ぎ込まれ、青銅の瓢箪は金黄色に光り輝き、ついに完成したのだった。
2700kgもある瓢箪を塔の頂きに運び設置するにはどうしたらよいか?と悩んでいた孫権に欧春子はまたもやいい方法を
提案した。厳冬の日を選んで町の人々に塔の頂きまで水をかけさせ凍らせた。それから銅の瓢箪を縄でしばって、
ついに頂上まで引き上げる事に成功したのだった。
巻上機を使って引き上げたので、今でも「香花橋」のたもとには「絞車弄」という横丁が残っているそうだ。
孫権から手紙で成功したことを知らされた諸葛亮は、東呉には才能ある人が多いことがわかり、それから東呉を見さげる
ようなことをしなくなったという。
[PENTAX67 90mm F16 1/250]


[PENTAX67 90mm F81/60] [PENTAX67 55mm F8 1/30]
寒山寺
月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓の漁火 愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声 客船に到る
これは唐の詩人「張継」の詩である。この詩によって寒山寺は有名になりました。
寒山寺といえば、「寒山と拾得」の物語が有名で、昔、蘇州と遠く隔たった村に、二人の若者が住んでいた。二人は幼なじみで姓も名も違うが
肉親の兄弟よりも親しかった。年上の寒山は、家が貧しく、早くに両親に死に別れたため、子供のころから豚の屠殺の技を覚えた。30歳になって
近所の人から縁談が持ち込まれ、三里ばかり離れたところにすむ娘と結婚することになった。娘も働き者で一頭の豚を飼っており、その豚を
結婚祝いに殺すつもりであったが、寒山しか屠殺するものがおらず、彼に頼むことにした。寒山は拾得を伴って娘の家に向かい豚を屠殺し、娘は
その豚でご馳走をこしらえ3人で祝いの夕食をとった。どういうわけか拾得は何も話さず、寒山はきっと娘も拾得もはにかんで黙りこくっているのだ
と思っていた。寒山にはまだ十里も離れたところへ屠殺にいかなければならず、拾得に 「食事の後片付けをして家に帰りなさい」と伝え娘の家をでた。
道を急いでいた寒山は豚の毛を剃るカンナを忘れ野に気がつき、急いで来た道をひき返した。ひき返すと娘の家の門は閉まっており、中から娘の
すすり泣く声と拾得と娘の会話が聞こえてきた。
「もう泣くなよ。兄さんは僕らのことをぜんぜん知らないんだ」
「もし知っていたら引き離すようなことを決してしないよ」「じゃーなぜ兄さんにうちあけなかったの?」
「決まったことだし、絶対幸せになれるよ」。。。。
二人の会話を聞いて寒山は結婚することをあきらめ「拾得と娘」を結婚させるため自ら出家の道を選んだのだった。
拾得は考えたあげく結婚をあきらめ寒山と同じ僧侶になることを決心し、寒山を探すたびに出る。何の手がかりもなく
やせこけた拾得は蘇州にたどり着きそこで寒山に再会するのである。そして楓橋の袂にお寺を建て「寒山寺」と名づけ
たそうです。言い伝えによると、拾得はその後、仏教を広めるために日本に渡ったそうで、今でも日本には「拾得寺」
蘇州には「寒山寺」があり、親睦友好の象徴となってます。


[WISTA SP 150mm F22 1/60]
拙政園
蘇州4大名園のひとつ(拙政園・留園・獅子林・滄浪亭)**拙政園・ 留園は世界遺産に登録されています。 (その他に頤和園・避暑山荘も世界遺産登録) この庭園は、明王朝の時代、正徳4年の1509年頃、官職を追放された王献臣が故郷蘇州に戻り造園した庭園で、面積は約5ヘクタール程あり 蘇州の庭園でもっとも広く、大小の蓮池やその周りに太湖石、石橋、回廊等があり、特に「ハスの花」の咲くころはとてもきれいです。 園内に園林博物館があり、また、西園内の盆栽も有名でとても立派です。一度覗いてみてください。 拙政園の場所は市内の北東部に位置し、北寺塔、獅子林、東園にも近くのんびり散策できます。
天平山
蘇州の西に天平山という大きな山があり、四季折々の美しさで人々をひき つけている。 山麓には色とりどりの楓が一面に生い茂り、周囲を美しく飾っている。 山の中腹には鉢の形をした泉があり、清く澄んでいて上芳香を放っている。 山中には巨石が到るところに連なっていて、あたかもよろずの笏(しゃく) が空を向いているかのように見え格別な趣がある。
この山は遠くから見ると豹のように見え、この山を上るには「一線天」を抜け 「中白雲」まででやっと半分「上白雲」で頂上に達する。 蘇州の町はこの山の北東の方角にあり、太湖は南西側にある。 すばらしい蘇州の風景は山頂から一目で見渡せる。
天平山はまたの名を「範墳山」ともいい、山の裏側には宋代の大文学者 「範仲淹」氏の墓跡が残っている。
[PENTAX67 55mm F8 1/30]
虎丘の斜塔
虎丘の山上に「雲岩寺塔」という古塔がある。八角形七層の煉瓦つくりの塔で、 千年の長きにわたり、蘇州の象徴とされてきた。ところがこの塔は一方に傾いて いる。
なぜこのように傾いたかについてある伝説が残っている。
太湖畔に官山という小山があり、その南に上浜村という小さな村があった。 この一帯は土地が肥え、川は澄み、景色の美しいところで、当時人々は平和に 暮らしていた。しかし、五代十国時代になると天下は大いに乱れ、多くの皇帝 がやっきになって領地争いをし、戦いが絶えることはなかった。その上、国内 も腐敗しきっていて、大臣達はお互いに権益を得んとして殺し合うという日々 であった。そのため、世は乱れ、田園は荒れ果て、人々は苦しみに喘いでいた。 それまで皇帝を尊敬してきた人民の気持ちはうすれ、逆に心底から皇帝を恨む 者も増えていった。皇帝が地元に現れると、人々は財産を捨て、故郷を離れて、 皇帝について戦いに行かなければならなかったからである。
もちろん上浜村の人々も例外ではなかった。
ある日のこと、昼間から突然暗雲がたちこめ、あたるは一寸先も見えないくら い真っ暗になったかと思うと、雷がとどろき、稲妻が走り、天も崩れんばかりの 暴風雨が襲ってきた。
烈しい風雨の中、突然ごろんという大きな音が聞こえてきた。暴風雨がおさまって、 皆が戸外へでて見ると、なんと村はずれに塔が建っていて、日の光をさえぎり、 通路をふさいでいるではないか。
上浜村の人々は天から降ってきた塔を見て、おどおどしていた。折も折り、 皇帝になりたいと野望を持つものがいて、「めでたい、めでたい。宝塔が天子の地 を鎮めたからにはきっと皇帝がこの村からでるにちがいない」と言いふらした。
それを聞いた村人立ちは大変腹を立て、みんなで相談して結果、天子の地を打ち 崩し、皇帝を生ませないようにその宝塔をぶち壊すことにした。そこで、老若男女 こぞって鎚や鎌を持って塔をぶち壊しに行った。人手が多いので瞬く間に塔の頂きや 軒先が壊され、塔身までさんざん痛めつけられ斜めに傾いてしまった。すると塔は とうとう我慢できず、神霊でもとりつかれたかのようにすっと地面から離れ、空に向 かって飛び上がった。 [CONTAX G2 BIOGON28mm F8 AE +1EV]

塔は空中でゆらりゆらりと漂っていた。どれくらいの日々がたっただろうか。 ある日、斉天大聖の孫悟空は天宮をおお騒がせしたあと、南天門から抜け出し、 花果山に向かう途中、上浜村の上空を通りかかり、空に漂う宝塔を見て、如意 棒でそれを引き寄せて手に入れた。思いがけない獲物を得て「しめた」と思い、 それを花果山に持ち帰り飾ろうとした。
蘇州の上空まできて下を見おろすと、所々に小さな峰の青々とした緑で彩られた 美しい景色に孫悟空は引き着付けられ大変喜び、嬉しさのあまり思わず踊りだし、 そのとたん、宝塔が手から離れ虎丘山の頂上に落ちてしまった。惜しいことに その宝塔はまっすぐに立たずに、ちょっと斜めに傾いていた。それに孫悟空の 半分食べ残した仙桃も滑って虎丘山の中腹に落ち、脇にはさんでいた酒ビンも するっと抜け、宝塔近くにころがり落ちた。
そのため、山上に大きな穴があき、「鉄華岩」と化してしまった。その岩泉は ビンのような形をしていて、そこから湧き出る水は格別で「天下第三泉」と 呼ばれるようになった。
それ以来、虎丘山の風景は前にも増して美しくなり、宝塔も長い年月を経て、 さらに傾いてしまった。不思議なことに蘇州中の人々が期せずして同じ夢を見た。 それは、みんなで力をあわせて宝塔の傾きを直そうと一生懸命引っ張っていると いう夢であった。
次の日、老若男女すべてが腰がだるいと訴えた。残念ながらそれからいくらやって も、宝塔の傾きを直すことはできず今に至っている。だから虎丘塔は相変らず斜めに 傾いているのである。
[CONTAX G2 BIOGON F5.6 AE +2/3EV]