猿岩石の失敗
…………TVが生みTVが壊してしまったもの

お笑いとして、客の前で悪者を演じるとき、
DT松本にしろ浜田にしろ、爆笑問題、海砂利水魚・・・にしろ、
どこかに「かわいげ」というものが残っているものだ。
だからこそ、客は、なんちゅう悪いやつだ、と思いながら、
それでも面白いと笑えるのではないだろうか。
それが技量であり演技の力なのだ。
ツッコミの天才(多分、多くは緻密な計算なのだと思うが)
浜田が意識して悪者を演じるとき、視聴者が笑えるのは、
彼がその演技の中に悪意ではなく稚気であり、
笑いであるものを巧妙に混ぜ込んでいるからなのだと思う。
そのことを踏まえて猿岩石有吉のとがった悪意を見るとき、
哀しみと同時にその演技力の未熟を見てとってしまう。
彼は、幼児からTVを見つづけたという、・・・・
そのとき彼が見ていたのはなんだったのだろう。「狂気」なのか?
決して本当には悪意を持ち得ていないように思えるのに、
悪意だけが突出してしまう未熟・・・・。
現代の若者の「わからなさ」なのだろうか?
それにしてはわかりやすい感情の露出がありすぎる。
彼は、「わからなさ」の読み違いをしているのだと思う。

その反面に位置する人として、「江頭2:50」がいる。
彼の視線の遠さと自意識を守ることを諦めた悲しみに満ちた姿勢は
お笑いの生き方のひとつの典型であるだろう。
彼は、TVで自分以外の誰でもない人間を、傷だらけになりながらも
演じつづけている。
私たち、受け取る側の人間が、求めつづけている、
見ることによって得られるカタルシスは、
送り手側に血を流ささずにはいられないのだ。
血を流すことを拒否すれば、そこにカタルシスはなく、
「日常」というおよそつまらない惰性が流れているにすぎなくなる。
TVは、ある種日常のなかに存在していて、
つまらないことが特徴のようにみえながら、「飽きる」ことを
くいつぶしていく恐ろしい機械のように感じることがある。
飽きたものは、その枠から除外されていく、
どのようにかわいがっていたものであっても、
それは不要なものになってしまう。

可哀相でなくなったサムエルをいったいどのくらいの人が支持するのだろう?
猿岩石はかわいそうであることを拒否し、
たったひとつの財産であったキャラクターを失うことで、
忘却される道を選んだ。それが彼らの望みだったとは思えないが。

猿岩石を愛するという心が持っていたものは、
「芸能界に生きる猿岩石」という物語を楽しむ歓びであったのではないだろうか。
かつて、彼らはシンデレラストーリーの登場人物として、繊細で愛らしい若者らしい
イメージを創出することが出来た。
それは虚構にすぎなかったのだが、しかし、受け手にとって、
またある意味では当人達にとっても真実だったはずなのである。
それこそは、生きる意味、ゆめの在り処だったのだから。
けれど、「その後」を生きるとき、彼らは物語を捨てること、
彼らに依託されている受け手のゆめを裏切ることを選んだのだ。
うそをつき続けるよりは真実の姿を認めさせようとする努力がFCの催し、
コントライブなるものには見えていた。
しかし、そこでは、未熟さがそのままの形で置き忘れられ、
現実への素直な認識すらなかった。受け手に虚構を捨てることを強制しながら、
彼ら自身は自らの虚構から一歩も出ることが出来なかったのだ。
確かに、エンターティメントの世界で生き残るため、
「飽きられる」という営為を振り払うためには、裏切りは絶対に必要なのであるけれど、
その裏切りは常にこれまで以上の感動と興奮をもたらすものでなければならないのだ。
裏切られたという驚きが、新たな感動に取って代わる、
そのときはじめて、送り手は生まれ変われるのである。
その興奮と驚き、それこそが「続く」ために求められている。

その興奮と驚きを維持しつづける努力の苦しさ、難しさ、
それこそが前人未到の大地への旅だったかもしれない。
と、今では、そう思う。


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