吸血鬼伝説
ようこそドラキュラ伯爵の城へ

吸血鬼。神の教えにそむき、人の生血を吸い、光をおそれ、永遠に生き続ける闇の化物。それは、一度死んだ人間が蘇ったからだと言う。昼は太陽の光を恐れて地下の墓場の棺桶で休み、夜には血を求めさまよう吸血鬼達。ジル・ド・エレ、エリザベス・バートリー、そしてドラキュラ。彼等は今も人々の心を捉えて放さない影の伝説である。

「ドラキュラ伯爵」 ブラム・ストーカー著


人の生血を吸い、光をおそれ、十字架を嫌い、昼は地下墓地の棺桶で休む残虐な化物。吸血鬼のその姿を世界中に知らしめたのはイギリスの作家ブラム・ストーカーが書いた著書「ドラキュラ伯爵」である。その著書の中に出てくる吸血鬼が後に、吸血鬼の代名詞ともなったドラキュラ伯爵その人である。

時は19世紀、イギリス人の弁理士、ジョナサン・ハーカーはルーマニアの貴族、ドラキュラ伯爵の求めに応じ、伯爵がロンドンに購入した土地や屋敷の説明をするためドラキュラ城へとむかう。場所は迷信、伝説の類は全てここから生まれると言う、トランシルバニア地方の深い森の中。
その日はワルプルギスの夜。悪魔達の年に一度の饗宴の夜。宿屋の夫婦や村人達が、城へむかおうとするジョナサン・ハーカーをこぞってひきとめる中、ハーカーは迷信深い村人達であると一笑に伏し、「仕事であるから」と城へとむかった。人々が魔除けのまじないで見送る中、迎えに来たのは気味の悪い御者である。
一度は好意的に見えた伯爵も次第に正体を現わし、ハーカーは城に閉じ込められ、外界との接触ができなくなる。城は三方を断崖絶壁に囲まれ、大門は固く閉ざされ、夜には狼達が徘徊する。無論彼等も伯爵の僕である。脱出は難しい。伯爵は近隣の村から幼い赤子をさらってきては夜中になるとどこからともなくあらわれる女吸血鬼達と血をすする。そして、ハーカーへの殺意も隠そうとはしなくなる。ハーカーは最後の夜、必死の脱出を計る。
ハーカーがロンドンを立ちしばらくした頃、ジョナサンの婚約者ミナが奇妙な事件に遭遇していた。親友のルーシーが人とも獣ともつかぬ化物に襲われたのだ。そんな中ミナはハーカーがブダペストの病院に入院しているとの知らせを受ける。ルーシーを友人達にまかせ、ミナはブダペストへとむかう。
しかし、ルーシーの病状は一向によくならず、友人達はヘルシング教授を呼ぶ。ヘルシング教授が様々に手を施すがルーシーからはどんどん血が減り続け彼女は死んでしまう。その後ロンドンでは子供たちが次々に誘拐され、血を吸われる事件がおきる。吸血鬼として復活したルーシーの仕業だった。友人のアーサーは悩みつつもルーシーを滅ぼす。
一方ミナはハーカーからドラキュラ城でのいきさつを聞く。やがて二人はロンドンへ戻り、ヘルシング教授らとこの悪魔を滅ぼすため行動を起こす。教授の元で彼等は伯爵の根城を一つ一つ潰していく。しかし、それをドラキュラ伯爵が静観しているはずもなく、皆が隠れ家を襲撃している間一人でいたミナを襲う。ミナを救うためにはドラキュラ伯爵本人を倒すしかない。弱っていくミナを救うため一行は伯爵を追ってトランシルバニアのドラキュラ城へとむかう。

悪魔公 ウラド・ドラクル

このブラム・ストーカーの小説にはモデルとなった歴史上の人物がいる。15世紀のワラキア公国(現在のルーマニアの一地方)の大公、ウラド・ツェペシュ(1431〜1476)、別名ウラド・ドラクルである。この、ドラクルがドラキュラの元の言葉であると言う。ドラクルの名は彼の父、ウラド・ドラクル三世から由来するようだ。ウラド三世は1431年に神聖ローマ帝国のドラゴン騎士団に入団している。この位階である「竜」(ドラゴン)がドラクルの元であるらしい。ドラクルはロシア語で悪魔を意味するらしく、そこから又、「悪魔公」の別名もある。
当時のワラキアはハンガリーとオスマントルコのちょうど境にあり、つまりキリスト教とイスラム教の宗教戦争の最前線であった。ウラド・ツェペシュは少年から青年時代を後に宿敵となるオスマントルコで過ごした。当時のワラキアは大国にはさまれ非常に複雑な政治情勢であった。ローマ帝国の後押しを受けながらも、オスマントルコを宗主国として受け入れざるを得ない状態になっていたのである。しかし、その扱いは客人に近いものであったらしい。ウラドはここで政治や戦略、外交など様々な教育を受けた。この経験が後に戦争や内政に役立っていくのである。
ウラドは1448年の夏、父が死んだ後のトルコ側の擁立者として2ヶ月ほどワラキア大公となっている。その後しばらくはウラドの動向がはっきりしない。親戚のモルダビア大公を頼ったり、トランシルバニアへ逃亡したり、対立していたハンガリー太守ヤノシュ・フニャディのもとで保護されたりしていたようだ。
1456年ウラドはワラキア公に復位している。しかし1453年東ローマ帝国が滅亡しており、ワラキア公国は以前にもましてオスマントルコの驚異にさらされていた。彼は内政の掌握から始めていく。この時の逸話が残っている。当時のワラキアは地主貴族の権力が強く、大公といえど彼等を無視できなかった。そこでウラドは中央集権化を進めていく。ある日ウラドは貴族達を集めこう聞いた「お前達は何人の主に仕えた事があるか」皆が口々に7人、30人と答えていると「お前達のような者が私欲に走り国力を弱めた」と言い、彼等を串刺しにしてしまう。又、老人や障害者を小屋に閉じ込め焼き殺してしまうなど社会的弱者は容赦なく切り捨て、犯罪者は厳しくとりしまった。間もなく当時世界最大の頒図を持つオスマントルコの大軍が、ハンガリーの属国である小国のワラキアに侵攻してくるのは目に見えていたためもあっただろう。彼の内政は苛烈を極めた。
1459年頃からウラドはオスマントルコに上納金を納めなくなる。そして1461年、ドナウ川南岸(北岸はワラキア公国)のスルタン(トルコ皇帝の事)領へ侵攻する。この戦績は法王をいたく喜ばせた。しかしその後も、宗主国であるハンガリーからの援軍はなく、12歳以上の国民を総動員してオスマントルコとの戦争が始まった。1462年のことである。オスマントルコの戦力は人数の上だけでも3倍〜5倍。ウラドは地の利をいかし、田畑を焼き補給を断ち、オスマントルコ軍が首都にやっとたどり着いたところに、ウラド・ツェペシュの悪名を轟かせる事になる、ある「見世物」を用意した。2万人のトルコ軍の捕虜を串刺しにして平地にさらしたのである。その後ウラドの夜襲を受けオスマントルコ軍は撤退する。
こうしてイスラム勢力を撃退したものの、ハンガリー国王の陰謀により12年に渡り幽閉される事になる。後にハンガリー国王の妹と結婚しワラキア公に復位するも、地主貴族の陰謀により殺される。1476年の事である。彼の人生の内、ワラキア公としてワラキア国内で過ごしたのは10年にもならないわずかな時間である。悪名高いウラド・ツェペシュだが、地元ワラキアでは、現在でも英雄である。