電脳カラクリ箱の利用方法
その1 : パソコンを使えるか?
現在コンピュータは、どこにでも使われている。それこそ、車、電卓、冷蔵庫、なんでもコンピュータ制御である。しかし、今コンピュータと言うとパソコンをイメージし易い。今ではかなり多くの方がパソコンを自宅に持ち、それなりに利用されていることと思う。しかし、パソコンのまさに万能カラクリ箱のような機能を使いこなせている方がどの位いるであろうか。パソコン(計算機)はこき使えば使うほど、役に立つようになってくれる物なのである。
私がその事を実感できたのは、3Dのプログラム組んでいた時である。
その2 : コンピュータって実は結構バカだ
パソコン、というより計算機は基本的に馬鹿である。人間のように様々な知識をその場に合わせて自分で応用することができない。応用している様に見えても、実際はある条件のもとでは、違う行動をするようにあらかじめプログラムされているにすぎない。人間が頭の中で考えている事全てを条件化し、プログラムを組む事は不可能に等しい。そこで、膨大な無駄な手順を踏み、プログラムにある計算式を動かし、結果を出している。これは、計算機にはあいまいな感覚が持てないせいである。
私は空間を歩くシステムを作ろうとした。人間は「空間を歩いていって光のある所でとまれ」、この命令を角度や方程式、明るさの単位などを数字や式にしなくとも実行できる。計算機には擬似空間を作る事はできる。しかし、その空間が何であるか、光とは何であるか、歩くとは何であるか、とまるにはどうすればいいのか、何もわからないのである。つまり、擬似空間を歩く時には、空間の上下、内外、又光の拡散角度、反射量、色、そして、歩く方法、などなど沢山の事を教えてやらなければならない。その上で、様々な状況を考え合わせて条件を1つ1つ付けてやるのである。それでやっと、ただ”空間を光のある所まで歩く”ことができるようになる。そして、このプログラムでは、それ以外の事は何もできない。しかし、計算機に”歩く”、”止まる”方法(式)や”光”の条件(数値)を与えておいてやる。その上で空間を作る。すると、光のある空間をある程度、自由に歩き回る事ができるようになる。(歩く方向などには制限があるが)ただしこちらの方が、計算機にとってはよりたくさんの計算が必要になる。だがこの方が便利である。
その3 : でも、それはユーザーの腕の問題なんだよ
こうした条件付けは、そのプログラムが何をするための物であるかで決まる。つまり自分が何をしたいのか、どんな機能をいま必要としているかがはっきりしていれば、よりスリムで効率的なプログラムができるのである。
パソコンはインターネットを表示するためだけのもではない。ワープロだけのものでもない。むろん電卓でもない。文字を書き、編集し、データを蓄積、共有し、絵を描き、音を作り、アニメーションを作り、擬似空間を作り、シュミレーションを行い、プリンターを制御し、データの通信を行い、データベースの検索をして、とにかくユーザーが妥協しない限りはあらゆる事が可能なのである。その機能を100%使いこなす事は難しいが、これらを使えるようになって始めて計算機の真価が解るだろう。
遊び
現代文化論
69期B−54 土屋 奈子
私は、だいたい週一回程度の頻度でライブハウスもしくはコンサート会場へ足を運ぶ。これは、今の私にとって最大の遊びである。
日常と隔絶された特殊な空間。暗い会場、スポットライトで光るステージ、そして日常の世界では決してありえないだろう演出。私が行くのはロックバンドのライブだけだが、これは劇や映画などその他にもたくさんの媒体があるだろう。そうして、日常では簡単には味わえないだろう「美」や「一体感」を感じるのである。その発生源は私ではない。しかし、自分では生み出せない、だが実現したいこと、ものをステージで表現されることを期待するのである。
そしてもう一つ、今現在腹の底から思いっきり声を出して叫ぶことがあるだろうか。それが許される場はどれくらいあるだろうか。むっつりと押し黙った電車のなか、周囲に気を使い大きな音も出せない住宅環境、静聴せよと言わんばかりのただ教師が自論のみを延々と話しつづける授業。皆どこで自分の言葉を表現しているのだろう。ホームページで毒ずく人をたくさん見かける。何故声に出して言わないのか。簡単だ、声に出せなかったのだろう。人間、たまには腹の底からでかい声を出してみてもいいんじゃないだろうか。私はライブハウスへ行って思いっきりはしゃいで暴れてしまう。いつも静かにしていることを要求されている私には、大切な遊びの場なのである。
私にとって「遊び」とは自分の日常では実現できないこと、しかしながら実現したいと思っていることを何らかの形で手に入れる方法である。そうでないなら日常生活だけで十分だろうし、日常生活そのもので自分のやりたいこと全てが実現しているという人間にとって理想の状態なのだろう。だが、これはあくまでも私にとってである。このように遊びを体系化したり定義することには私は意義を感じない。遊びを定義してどうするのだろう。「遊びとはこういうものです。だからそれは遊びではありません」とでもいうつもりなのだろうか。それとも「このような効果があるから遊びは重要なのです」とでもいうつもりなのか。人それぞれ違って当然だし、もっと自由でかまわないと思う。それこそ「遊び」なのだから定義という束縛をしなくてもいいだろう。
最近就職が決まり正式採用は4月からなのだがアルバイトとして社員並に働いている。そうして初めてわかったことなのだが、働いていると遊べないのである。毎日早朝に起床し、夜は遅くまで働き、更に翌日早朝に起きなければならないことを考えると夜ゆっくりと何かをしているわけにもいかない。更にいうならそのような体力、気力はどこにも残っていない。働き始めて2週間、既に毎日のように「遊びたい」と考えている。しかし、当然「働かざるもの食うべからず」というように、働かず収入がなくては生きていくことすらできないのである。遊ぶために最低限必要な金すら手に入らないのだし、また働いているからこそ遊ぶことが自分に許せるのだから。
しかしできることなら、毎日遊びながら生活してみたいものだと、心密かにあこがれる。